ノーライフキング  いとうせいこう 

 第149回の芥川賞候補者にはなかなか面白そうな作家が揃っているが、本命はやはり「いとうせいこう」だろう。そう思うのは、すでに名のある人をわざわざ候補にして落とすようなことはしないだろう、という単純な理由にもよるが、しかし本当の理由は、今、彼の文学を正当に評価すべきではないか、というようなムードがあることを漠然と感じるからだ。もっとも、本来実験的な小説を拾い上げるはずの「三島由紀夫賞」に、彼は「想像ラジオ」で三度目の候補にされ、それで落とされているから、油断はできないけれど。
 受賞作発表前に、勝手に受賞者は彼と決めて、感想を述べてしまおう。もっとも、作品はまだ彼の処女作「ノーライフキング」しか読んでいない。だからその作品に対して、というよりも、むしろ、みうらじゅんとの「ザ・スライド・ショー」や、奥泉光との「文芸漫談」で見せる「ツッコミ」キャラとしての存在に対しての感想になる。
 作家にも「ボケ」キャラと「ツッコミ」キャラとがある。バカの一つ覚えと言われるの承知で言うと、「ボケ」は想像界であり、「ツッコミ」は象徴界である。多分、そうなる。多分をつけずに言うと、「ボケ」は自己陶酔的直接性であり、「ツッコミ」はイロニー的再帰性である。そして昨今の社会情勢には、恰も文学的な「ツッコミ」を待っているかのごとき、「ボケ」状態が蔓延している。もうひとつ、私がいとうせいこうの受賞を期待するのは、そうなれば、別のツッコミキャラたる太田光などが出てくる幕がなくなるだろうと思うからだ。漫才師が小説を書いても一向に構わないが、某オカルト宗教家とともに「憲法9条を世界遺産に」などと揚言する彼が、まかり間違って芥川賞を取ってしまうという悪夢は、できれば見ずに済ませたいものだ。
 「ノーライフキング」(1988年)は、「理想の時代」も「夢の時代」も終わり、「虚構の時代」が始まったときに、文学的感性でその時代を真っ先に捉えた作品だと言える。もしかしたら唯一の「文学」作品かも知れない。「夢の時代」の残滓を引きずったまま、次の「動物の時代」に入ってしまっている作品なら沢山あるのだけれど。
 「ノーライフキング」は映画にもなっているし、たとえば漫画に置換しても、この作品の主旨は伝達可能である。世には「漫画で読む世界名作文学」というようなものもあり、漫画に置換可能である部分にも文学があることを否定するものではないが、「abさんご」という、これは映像には絶対置換不可能な文学に最近触れたばかりなので、いささか物足りなくはある。「想像ラジオ」はどうだろうか

abさんご  その4

 単行本「abさんご」には、初期の短編が三編収められている。「毬」「タミエの花」「虹」の三篇で、それらは「タミエ」シリーズと呼ぶべきものである。三歳くらいから小学校初年の頃にいたる幼女の内面が生き生きと綴られている佳品である。―というのは「毬」から「タミエの花」まで読み進んでいたときに抱いた感想である。しかし三作目の「虹」の結末に読み至るに及んで、「佳品である」などという乙に澄ました感想など引っ込めざるを得なくなった。そこには予想もしない恐るべき結末が書きつけられていた。
 タミエという幼女に作者黒田夏子幼年時代を重ねて読むことは許されることだろう。というか、むしろそれ以外にこれらの小説を読解する手段はない。
 「abさんご」もまた作者自身の経験を基にしているのであるが、それによると母が病死したのは作者が四歳の時のことである。タミエ・シリーズは、タミエが二歳半から「小学校に上がるか上がらないか」の頃、すなわち六歳くらいまでの時期としているが、タミエの世界には母が死んだということの反照は一切ない。そもそも父はもとより家族というものが一切姿を見せない小説である。ただ一人、何の予告もなく突然現れる弟「カッチャン」を除いては。
 「毬」は昭和三十八年に読売短編小説賞を受賞している。審査委員は丹羽文雄で、このとき作者は二十六歳。他の二編もだいたい同じ時期に書かれたものと思われる。大学を卒業して二年間勤めていた国語教師の職も辞し、おそらく創作に専念していた時期なのであろう。黒田はこのあと七十五歳の早稲田文學新人賞受賞まで延々半世紀も沈潜する。短編小説賞受賞という形で、波間からわずかに背びれのきらめきを見せただけで。
 「abさんご」に私は、凶悪なイオカステの影を見出した。エディプス崩壊していくそのエディプスの母にして妻たるイオカステである。タミエ・シリーズという若書きの小説の、その背びれのきらめきに凶悪さを感知したとき、私は自分の予感が正しかったことを知ったのだ。

 クリスティアーヌ・オリヴィエの「母の刻印 イオカステーの子供たち」は、女性の精神科医の手になるエディプス解明の書物で、同時にフロイトの言説を男性中心主義の産物として退けるものである。フロイトは父―母―息子の三角関係からエディプス仮説を構築したが、父―母―娘の関係については、それに準ずるとして済ませている。ユングは娘のケースを別立てとして「エレクトラ・コンプレックス」の概念を提唱したが、フロイトはその説を採らなかった。しかし晩年、ようやくそこに疑問が兆し、フロイトは「女性は何を欲望するのか」と自問したという。
 オリヴィエはひとつの疑義を呈する。エディプスはなぜ父であるライアス王と息子エディプスとの相克としてのみ語られるのか。その母の名イオカステを忘却せしめたのは誰か。あるいは単に欲望の対象の位置に貶めたのは。
 オリヴィエはイオカステを欲望の対象としてではなく、欲望の主体足らしめるべくその復活を要求する。
 象徴界の主たる父と息子に比して、女性―母と娘とは想像界にとどめ置かれる。言語とはまた父権制社会における男性の言語であるからだ。それでは女性解放とは女性もまた象徴界に参与することを要求することなのだろうか。
 オリヴィエが要約したエディプスの負の連鎖は次のようなことである。

 「男性を抑圧せず、女性を欲望する」まだ見ぬ<母>との再会の幻想に導かれて結婚する−しかし<母>と再会できるのは夫だけである―妻は欲望の不在を埋めようとして愛されることを熱望する―夫は「ふたたび閉じ込められるのではないかという不安」に襲われ、家庭の外に逃げだす―母親だけが子供の教育者となり、子供の無意識は<母>との関連においてのみ構造化される―結果として息子たちを女嫌いにし、娘たちを誘惑者にする―女嫌いと誘惑者が<母>との再会の幻想に導かれて結婚する―
 
 一人の男性として思い当たるフシは多々あるが、こと日本の場合で言うと「良妻賢母」幻想の崩壊のあと、男性は気を取り直して「イクメン」として普通に育児に参加するところに来ている。エディプス連鎖は現象的には解消され、まだ「父性」に支えられたものとしての「母性」をベースとした「家族」幻想はかつかつ維持されている、というところだ。そしてオリヴィエのような攻撃的なフェミニズム言説もそれとともに後景に引っ込むことになった。日本人の「去勢」の不十分さ、情緒的、鏡像段階的心象は、ともかくも「家族」の維持にはプラスに働くのだ。現在の、そのようにして育てられた子供たちが、先々、過酷な象徴界たる実世界に十全に伍していけるかどうか、という問題は残るにせよ。
 さて、そのような世の動きとは常に一線を画した世界に生きてきた黒田の場合はどうなっているのだろう。黒田は早くに母を失い、そして父を第三者に奪われたという経験を強いられた女性である。このような境遇下ではエディプスは起動しないのだろうか。それとも、横滑り的に後妻の位置を掠め取った、例の「家事手伝い人」の女性の出現により、<母>はそのより本源に近い形で―欲望の主体として―表れ、通常以上の強度で黒田を襲ったのだろうか。
 タミエ・シリーズの「タミエの花」が読解の手がかりになるかも知れない。これと、「abさんご」の第十二章<草ごろし>との関連が。両者の関連についてはすでに池田雄一氏が「すばる」の書評で触れているが、両者は対として捉えられる作品世界である。また<草ごろし>の章は蓮實重彦が十五章中、最もすばらしいとしたものである。私にとってはまた、<草ごろし>は一番難解な章だった。一読、二読三読しても、まだ意味が良くつかめないでいたのだ。
 「タミエの花」は、六十近くもの植物名が出てくる小説で、それとは別にタミエが勝手に命名した植物名も出てくる。タミエは、学校をサボって寺の裏山でそれらの草花と親しんでいる時、フィールド研究家風の男と出会う。目に触れる草花の正式な名称を教えてくれるその男に、タミエはあくまでも自作の名称を譲らずに主張して対抗するのだ。そしてそのとき山ではまだ咲く時期ではなかったがタミエが一番好きな花、「テンニンゴロモ」と美しく名づけられていたその花は、男によって「シャガ」という正式な名称を示される。かくて、タミエの世界から何か大切なものが奪い取られた。

 「単に感覚的博識ともいうべき己の世界に比べて、男の世界には地図があり帳面があり、みんなとの協定みんなの支持があるという堅固を確実を安定を、ひしひしと感じさせられてきたタミエにとって、いま泪まみれで庇うべきいとしくももろい自分の世界は、凝って集まってあの花となり、繚乱とタミエを充たしていた。」

 タミエは結局、男との別れ際に、「シャガ」という名前、「シャガ」が「シャガ」である世界を受け入れる。
 タミエは、独自に命名するという方法で、それまで男に独占されていた言語世界を奪還し、そのことで象徴界のトバ口に立っていた。そしてそれは当然のごとく挫折する命運にある。
 一方の<草ごろし>はどうだろう。
 多分に、タミエが逍遥した寺の裏山に続くのであろう、一本の草道。それが周辺の宅地開発により、普通の整地された道路に変わっていく。同時にかつては野菜なども植えられていた家の庭が、かの「家事手伝い人」の同居と共に荒廃していくさまが描かれる。かつて草々が生い茂り秘密と驚異に満ちた場所であった庭の荒廃。その荒廃を見かねて「草ごろし人」を入れて、「あるとわかっているものしかない庭」にしてしまう。やがてその庭から「私」は立ち去っていくのである。
 ここでは、「タミエの花」は完全に滅失している。ウブゲハコベカタクリマブシ、テツドウグサ、グルグルソウ・・・。かつてさまざまな名前で呼ばれていたそれらの草花は、今は無機質に「草」と呼ばれるだけである。
 「abさんご」全体がほぼ草花名を排除する小説である。それらはたとえば「小菊」と呼ばれ「秋草」と呼ばれるだけだ。「ききょうとなでしこ」とあるからオヤと思うとそれは、その模様を入れた平絽を指しているという具合だ。しかし、かつての「タミエの花」の残照が唯一この<草ごろし>の章に残されている。この章に、この章だけに「雪白極小花」という、かつてのタミエの命名に類する名前が使われているのだ。かくて「タミエ」の痕跡をひそかに隠しながら、かつて参入しかかった象徴界から撤退を余儀なくされたことを受容し、それでもやはり「シャガ」<菁莪>の世界に入ることは拒否する、ということが示される。それはまた「花鳥風月」の世界での安息を否定することでもある。

 黒田夏子の境遇は、エディプスを無化するより、やはりエディプスを強化したと考えたほうがよさそうだ。そしてそれはフロイトからマルト・ロベールへの移行という形で表される。
 マルト・ロベールはその「起源の小説と小説の起源」で、「エディプス的私生児」と「捨て子」という類型を提唱した。たとえばあらゆる作家はこの二類型に分類されると。
 「(エディプス的)私生児」とは「父」の否定であると思われる。そして「捨て子」とは「父」も「母」も否定し去ることだと。しかし、いずれもつまりは「エディプス」を否定すると見せて、実はそれをに更新する方法なのだ。おそらくは想像力というものを復活させるために。
 タミエは「捨て子」である。おもちゃ屋の店先から「毬」を盗んだり、平気で学校をサボって野山を逍遥したり、という彼女の行動がそれを示している。なによりもこの幼女の心象世界には父も母も現れてはこないのだ。
 「虹」。タミエは虹を見たいと切望する。彼女は虹を見たことがないと思っている。しかし、彼女は実は虹を見ていた。見ていながらそのことを意識から消し去っていたのだ。
 「タミエの花」が<草ごろし>に照応しているように、「虹」は「abさんご」の第十三章<虹のゆくえ>に照合していると思われる。<虹のゆくえ>の虹は青い虹、すなわち「足もとからひかりにげる青い虹のような小爬虫類」である。トカゲに出くわしたら急いで親指を隠さないと親の死に目に会えないという言い伝えを、「私」は恐れる。「私」は母親の死の定かな記憶がなく、一方で父の死に目に立ち会えなかった。かくて虹と死とは結びつけられる。虹、そして死。虹はなぜ忘れられていたのか。死はなぜ忘れられていたのか。
 「abさんご」を私は「私」を去った「私小説」と呼んだ。そしてそこから「私」以上のより強固な個体が立ち上がると言った。その個体とは何か。
 クリスティアーヌ・オリヴィエは言う。「我思う、ゆえに我あり」、この言葉は女性に敬意を表するなら次のように変形しなければならない。「我は気に入られる、故に我あり」、と。しかし、これはオリヴィエにとっては脱却すべき欲望の対象としての、その限りでの女性のことに過ぎない。
 「我思う、故に我あり」、これはライアス王だ。エディプスはどうか。
 それは「我殺す、故に我あり」になるのだ。それではイオカステはどうか。
 フロイトは迷う。「女性はいったい何を欲望するのか」。女性の復権のために、夫ライアスの言明ではなく、わが息子にしてわが夫、エディプスの言明を、イオカステは模倣するのか。「我殺す、故に我あり」。しかし、タミエは虹とともにその記憶を消し去ってしまっていた。エディプスが自らその目を突いて、この世から永遠に光を追放したように。しかし、その虹の記憶が青い爬虫類とともに足もとにあらわれるとき、何が甦るのか。

 スラヴォイ・ジジェク「厄介なる主体」の柄谷行人による書評によると、デカルト的主体は、コギトに男性的な支配を見いだすフェミニストを始めさまざまなポスト・モダニズム陣営から攻撃されてきた。ハイデガーは、デカルト的主体から「存在」に向かったとされた。しかし、デカルトこそ、懐疑を決行する前に発狂する危険に備えていたのである。ハイデガーを待つまでもなく、デカルトのコギトは存在の裂け目から来ていた。

 「虹」はこの「存在の裂け目」を垣間見せる、禍々しいほどの傑作である。
 私は、この小説の結尾に、三島由紀夫の詩「凶ごと」を想起した。

 私は夕な夕な
 窓に立ち椿事を待った
 凶変のだう悪な砂塵が

 夜の虹のやうに町並みの
 むこうからおしよせてくるのを

 「象徴界」への権利だって ? 愛とは「想像界」への道を逆にたどることだって ?
 いや、これは「現実界」なのだ。
 本当は人間には触れえぬもの、恐るべき人間の「現実界」の姿に、ほとんど狂気のように獰悪な虹の力を借りて触れえたとき、わがか弱きエディプスは凶悪なイオカステの姿を前にして立ち竦んだ。そして、文学としてこれは傑作だと証言する追い詰められた証人ではなく、この小説を断罪する小心な検察官のほうになりたい、という欲望がかすかに兆した。
 しかし、実際のところ、我々はこの傑作と共に生きるしかないのだった。

辻仁成 再説

 辻仁成「海峡の光」に対する初読時の個人的評価は★(特に読む必要なし)で特段に評価が低いわけではない。しかし、前回の藤沢周のところで出た「ホンモノ」「ニセモノ」のテーマを敷衍するのに、彼は格好の作家である。つまり辻の作家としてのありように思いをいたすと、「ホンモノ」と「ニセモノ」との定義が手に入るような気がするのだ。
 仮にも小説を書くような人間は、原初に物語に耽溺したという経験を持つ、と措定して、その先の、「その物語に傷ついた人。その傷を癒すために自ら物語を改変しようとする人」を「ホンモノ」とし、一方「ニセモノ」は「物語に傷ついていない人。物語の模倣で、かつての耽溺を延命しているだけの人」、とするという風に。「海峡の光」を読んで、私は直感的にそこに「文学に傷つけられてなどいない人」を見出した。明言はしなかったが、私は辻を「ニセモノ」と断じたのである。
 しかしこれでは「物語」と「文学」とがいささか混乱している。言い直そう。人を傷つけるような物語、それが文学である。物語に傷つくということはそこに「文学」を感知することである。この「文学」が感知でき、さらにその傷から癒されるために、自ら「文学」を装置する人、彼(彼女)をこそ、「ホンモノ」の作家と呼ぶ。
 一方、「物語」を単に「物語」として享楽した人、物語に傷つくのではなく、「作家(になる)という物語」に傷つき、その傷から癒えるためには自ら作家になりおおせることしかない、と思いなした人。彼(彼女)をその範囲で「ニセモノ」と呼ぼう。一見後者に見えながら、実は前者だったという作家も大勢いる。芥川龍之介という作家にかぶれて、しゃにむに作家になると思いつめた太宰治などはその例だろう。しかし太宰はそれだけではなく同時に「物語」にも傷ついていたことは自明である。「物語」に傷つくことと「作家という物語」に傷つくこととは、純文学を顕彰する芥川賞が作られた時に始まり、戦後の出版文化の興隆とともに作家という存在が特権的に輝きだす時代を経て、ワープロが普及し、原稿用紙に文字を書きつけるという重労働に耐え得ない人までが、文章を気楽にせっせと綴りだす近年に至るまで、実は限りなく近接し、相似形をなしていたことだった。虚構であるか否かを問わず、何か文章を書けば、作家であることが自他共に認められる現在では、この二者の距離は限りなく遠くなり、もはや別次元に属する話になっている。

 「傷つく」とは、付け加えれば概ね以下のようなことでもある。その物語に魅せられ、魅せられるあまりに、その物語が自分の実生活以上の価値を持つ。ゆえに彼の実生活は放置され、あるとき実生活の荒野に一人で立ち尽くしている自分を発見する。そのときすでに彼の同僚たちはさんざめく実生活の都会で享楽の日々を送っている。彼に出来ることは二つしかない。足元の荒野を開拓すべく耕しはじめるか、あるいは遅ればせにその都会に向けて旅立つか、の二つだ。これは「ホンモノ」の中でさらに細分化して現れた分岐である。

 さて、この定義で言うと藤沢周は、そもそも「物語」に耽溺した、という経験を有しないから、「ホンモノ」と「ニセモノ」との分岐以前にすでに除外されている。彼は「作家という物語」に傷ついたわけでもない。彼の言明に韜晦がないと前提すると、彼は単に「編集者」という職業から「作家」という職業に、いささかの野心もなく鞍替えしただけなのだ。
 かくて、藤沢周を「ニセモノ」としたいがためにその定義を考えたが、定義が成立してみると、藤沢はそこからもはじけ飛んでしまった。

 辻仁成に、「作家という物語」のほかに、「物語」そのものに傷ついたという痕跡は見出せるか。つまり彼の小説は「文学」か。このような問いにこだわるのは多分愚かなことだろう。辻は音楽家でもあり、映画監督でもあるらしいが、彼の音楽は果たして「音楽」か、彼の映画は果たして「映画」か、という問いが無意味だとしたら、小説だけにそれを問う、つまり小説にはその上のカテゴリーとして「文学」と「非文学」がある、とするのはいささか滑稽ですらある思い込みというものだろう。
 再説にあたって読むべきは、世評高い「白仏」が良いと思い、これを買い求めてまじめに読み始めた。フランスの五大文学賞の一つだというフェミナ賞を日本人として初めて受賞したという。これは快挙である。戦死者の鎮魂のために骨を集めて骨仏を作ったという自身の祖父の顕彰のために書いた小説。しかし、読み進めてしばらくすると、その事実の部分のほかは作者の創作であるという、その創作の部分が、果たして真に祖父の顕彰になっているのか、という疑念が萌し、たちまちこの長い小説と付き合っていくのが億劫になってきた。この小説が芥川賞受賞第一作であって、「海峡の光」の直後に書かれた小説であること、再説の主旨からしてなるべく近作のほうが適切であること、ということを理由にして、いったんこの小説を横に置くことにした。代わりに彼の著作リストの、なるべく近年の方からあてずっぽうに選んだのが「ダリア」。予備知識も何もなく読み始めたが、平凡な中流家庭に謎の人物が現れて家族の中に入り込み、やがて家族を支配していく、というような筋立て。「めくるめく背徳と耽美」と、文庫本の帯にある。物語の中に入りかけては、あまりにも陳腐な表現に興ざめし、再び入り込む努力をしてはまた弾かれる、ということを繰り返して、なんとか話の筋を掴む。「めくるめく」思いはもとより、恐怖すらも感じないのはどういうわけだろう。章ごとに、祖父―妻―夫―次男等々と、話者が替わっていくその構成のためか。それは多面的に現実をとらえるひとつの手法ではあるが、最初の祖父が耄碌しているという設定で、現実と妄想の区別がつかないという風に、現実の相対化が過度になされている。それもそれに見合うだけの表現の生彩があればまだしも、おおむね平準な表現が続くので読むのが苦痛。公平を期して言えば、文学に触れる喜びを感じさせる、一定の質をクリアしていると思われる表現は二箇所だけあったけれど。「悪」というものの解明に赴くというのは現代文学のひとつの課題である。しかしこの小説をたとえば平野啓一郎の「決壊」の隣に並べることは到底出来ない。多分「悪」というものに接近するには、かの全能の第三者の視点、絶対の視点が必要なのだ。悪を多視点で描くことは、それだけで「藪の中」の相対悪のところでつかまってしまい、その先に行くことができない。
 文学的収穫がない小説を読まされた後はその腹いせにつまらぬツッコミなどもつい出したくなる。舞台は日本でパリじゃないんだから「アパルトマン」はないだろう。パリの街路樹ならマロニエでいいが、日本なんだからそれはトチノキなんじゃない ? 道路を挟んで褐色の移民系住民と旧住民とが抗争を起こすって、それは日本じゃなくパリの話だろう。そもそも非キリスト教徒たる日本人になぜ「悪魔」という心象が生じてくるのかな、等々。
 辻は、二人の女優ととっかえひっかえ結婚したというなかなかの経歴を有し、いまや「パリ在住」の作家である。あまつさえ彼の作品は教科書にも採用されている。彼の「作家になるという物語」はほぼ完結したかのようだ。そして、そもそも「物語」につけられた傷が化膿して文学となる、というタイプの作家では彼はない。「パリ在住」の効能も今のところ、上記のようなトンチンカンな現れ方をしているだけだ。いっそフランス語で好きなパリを舞台に小説を書いたらどうだろうかと思う。カズオ・イシグロの通俗小説が英語圏では高評価を受けたのだから、それもありの選択だ。

 ここで、再び公平を期して「白仏」に戻るべきだろうか。
 しかし、私には次の事実を確認すれば事足りるような気がする。
 映画監督としての彼は、監督・脚本・音楽を手がけた何作目かの作品で、ドーヴィル・アジア映画祭とかいう映画祭で最優秀「イマージュ賞」を受賞した。辻が誇る国際的キャリアのひとつだが、受賞した作品名は「ほとけ」である。してみると、やはり「白仏」に対する評価も、「作家の値うち」で福田和也が否定しているにも関わらず、エキゾチズムの学術的変形たるオリエンタリズムの現れに過ぎないのだろう。この作品もその「イメージ」が評価されたのだろうと考えて大過ないような気がする。同書で福田は84点という高得点を「白仏」につけている。これは「近代日本文学の歴史に銘記されるべき作品」だそうである。しかしそもそも私は彼が石原慎太郎の作品に96点という最高点をつけたときから、その文学鑑賞眼に信頼を置いていない。
 

abさんご その3

 この小説の表記法、「ひらがな」の多用とその一方での漢字造成語の多用が、情緒を排除する効果があることは、それなりに得心がいく。この表記法にはさらに残っているもう一つの要素がある。「カタカナ」の排除である。外来語を表記する「カタカナ」はこの小説では一切使われていない。「かーど箱」「くりーむいろ」「すこっちてりあ」など、この小説で使われている外来語(数えるとそれは10個ある)はすべて「ひらがな」表記である。「カタカナ」はなく、それを飛び越してアルファベット(a,b)という外来がいきなり使われていることになる。ここにも、字面の視覚的効果のほかに、何か期待された効果があるのだろうか。
 情緒の排除以外の要素、いや情緒の排除ということがもう少し深いレベルで行われていることをそれは示しているのだろうか。
 日本語が、漢字・ひらがな・カタカナの三種の文字で表記されていることについては、有名なラカンの言及があり、またそれに触れた柄谷行人の「日本精神分析」という仕事がある。ラカンの言及は漢字の「音読み」と「訓読み」との併在が、日本人を「嘘つきであるということなしに」、真実を語ることを可能にしているという。また日本人には精神分析が不要である、とも。私にはラカンの言うことはよく分らないが、柄谷はこれに外来語をカタカナ表記することをつけ加えて、前者は中国文明の影響を受けながら、それに飲み込まれることなくあくまでも外在性のままとどめ、後者は同じく西洋文明の影響を受けながら、それを外在性のまま押しとどめている効果を持っているという。これなら少しは分る。このことが、丸山真男を嘆かせた「日本ではいかなる外来思想も受けいれられるが、ただ雑居しているだけで、内的な核心に及ぶことがない」ということにつながっているのだ、と。
 柄谷によるラカンの要約は次のようになる。

 日本人はいわば、「去勢」が不十分である、ということです。象徴界に入りつつ、同時に、想像界、というか、鏡像段階にとどまっている。
 (中略)
 ラカンがそこから日本人には「精神分析が不要だ」という結論を導き出した理由は、たぶん、フロイトが無意識を「象形文字」として捉えたことにあるといってよい。精神分析は無意識を意識化することにあるが、それは音声言語化にほかならない。それは無意識における「象形文字」を解読することである。しかるに、日本語では、いわば「象形文字」がそのまま意識においてもあらわれる。そこでは、「無意識からパロールへの距離が触知可能である」。
 (中略)
 したがって日本人には抑圧がないということになる。なぜなら彼らは意識において象形文字を常に露出させているからだ。したがって、日本人はつねに真実を語っている、ということになる。
 (ラカン協会における講演「日本精神分析再考」より)

 情緒に絡まれる、ということは、象徴界の中でなおも依然として鏡像段階にある、ということではないか。すれば、漢字―ひらがな―カタカナ、という日本語の表記システムに揺さぶりをかければ、この鏡像段階想像界を抜け出ることが出来るのかもしれない。この推論が正しいかどうかを私は立証出来ないが、こう考えること自体に何か魅惑を感ずるのである。
 
 ひらがなの多用と漢語の造成によって、音読み、訓読みの二重構造を解体し(音読み、訓読みの別と、それに対する漢字・ひらがなの配分は極めて恣意的になされている)、カタカナの排除によって、カタカナ抜きで「ab」に飛躍することによって、外来文明の、外在性を拒否すること。
 さらに、固有名詞の排除、端的には「家事がかり」を固有名詞で呼ぶことの拒否、人称名詞の拒否、さらには「お義母(かあ)さん」と呼ぶことの拒否、つまりそれらの呼称を使用するときに必然的に生ずる情緒(鏡像段階)を厭嫌すること。
 
 これらのことは二つの効果をもたらす。
 一つは、ラカンの言う意味で、真実を語らざるを得ない日本語のエクリチュールの罠を排し、「嘘をつく自由」を獲得することである。
 こう考えると、啄木の「ローマ字日記」のローマ字や、谷崎の「瘋癲老人日記」のカタカナ表記も、日本語の情緒構造、あるいは日本語の混用表記システムを避けて、「嘘をつく自由」を求める方法のように思えてくるのだ。

 もう一つは、去勢不十分の、不完全なエディプスを脱すること。そのときそこに何が現われるか。凶悪なイオカステが現われるのではないのか。不完全なエディプス、それは、健全で低俗な女性の侵入をなすすべもなく受け入れた「父」のことだ。「父」の不完全なエディプス経験を尻目に、イオカステは勇躍、象徴界に赴くのであった。
 クンデラが、残された「最後のタブー」としたイオカステの問題が、ここには潜んでいる。
 作家は、幼時に母の死によって母性を奪われただけではなく、父の後妻たる「家事がかり」という文化侵略者によって、母性の無化そのものを経験した人間なのだ。それでも彼女はイオカステなのか。しかり、彼女は今や父の死の年齢を超えて生き延びているではないか。
 この小説は、父よりも長く生きるであろう自分がやがてその父を自分の息子であるかのように愛するであろうことの予感の中で、―精神分析を必要としない日本人のようにではなく―むしろ、精神分析という優しい愛の理解の手を求めて、それに自らの身をさしだした小説である。―と断言してみせる、日本語表記法の中で思考する私に、多分、抑圧というものがないであろうことは、確かなことのように思われる。というより、学術的には存在するであろう文脈的齟齬を無視して、言明に断言という意味論的効果を求めるときに、私の中の西欧中心主義という抑圧に気づいたのだろう。抑圧は気づき―意識化によって、それをほぼ無化することが出来るのだろうから。

藤沢周 再説

 荻野アンナに続く再説シリーズの、その2。
 藤沢周については、「ニセモノの作家」という、これまたひどい評語を与えている。受賞作「ブエノスアイレス午前零時」の感想を再掲すれば、以下のとおり。

 私はこの人の容貌を信頼していた。いい面魂をしているのである。作家たるものが備えていてしかるべき、と言いたくなるくらいの顔だ。だからいざその小説を読み、心に何も響くものがなかったとき、それをいきなり作家の責に帰せず、私の読み方の方に問題があると思ったのである。で、再読してみた。虚心に。―やはり、何にも心に響かない。ドロップアウトした男が、過去の回想に沈む耄碌した老嬢とダンスをする、それだけの話。あらすじが手軽に書ける小説。あらすじを書くとその他に何も残らない小説。そういう話でも、抑制された筆致というものがあれば、小説として認められ、評価されるらしい。なんだか疲れてしまう。思い切って言ってしまおう。―言う前に、念のため「サイゴン・ピックアップ」も読んでみてから。・・・やはり言うことにした。これは偽作家の手になる偽の小説だと。時代小説で言えば、津本陽だ。剣道着を着て木刀をかざしているといかにも真正の時代小説作家に見えるが、作品は読めども読めどもみごとに空疎である。

 この感想は、今読むと我ながら許しがたいもののように思う。偽作家などという無神経な決めつけをしているからではない。どこかに「ホンモノ」というものがあるという自分の楽天性に思い至るからだ。本物と贋物を一義的に決定できるなどという幻想、なんという甘さ。本物と贋物を区別できる客観的基準は存在しない。せいぜい存在するのは、「これが本物だ」という宣言と、実践的行動によって意味空間を形成していく営みだけである。
 今回もむしろ「贋物の作家などと言う資格は誰にもない」という結論に至れば、私の心にも平安が訪れよう。しかしその結論には至りそうもない。

 手に取ったのは「武曲」。図書館の返却本コーナーでたまたま見つけた。奥付けを見ると2012年刊とあり、バリバリの新作である。これは恰好の小説だ。しかしなにやら剣道が出てくる話らしいので、嫌な予感もした。藤沢を贋作家とするときに参照例として出した津本陽のそれの如き剣道小説なのか。
 
 剣道の実践を通して生の位相が変わっていく高校生の物語。剣禅一如の世界。
 「剣」と「禅」については、芥川賞受賞作を読破する試みの中ですでに遭遇している。「剣」は五味康祐「喪神」、「禅」は斯波四郎「山塔」。この両作に対する感想は、「武曲」にもそのまま当てはまると思うので、これもその一部を再掲する。

 「喪神」

 なぜか芥川賞に紛れ込んできた剣豪小説。
(宇野浩二などの評家が)「所詮、芥川賞にも程とおく、直木賞にも程とおいものである」―と言うに及んでは、少し弁護したくなる。 すなわち、剣豪と称された人々が到達した人間観照の極地は、文学が接近しうる人間の真実のもっとも精微なるものを示している―というふうに。それはまた内田樹思想の極微が、彼の武道思想に集約されるということと同じ事情である、というふうに。しかしそれは例えば「バガボンド」でも十分に示しうるものである、ということは、そもそもの文学というものの限界がここに露呈している、とも言えるように思う。

「山塔」

 禅的に人生を追求する小説。あるいは人生=禅と捉える小説。こころは過度の脈絡に拘束されず、もっと刹那を感じて生きるべし、ということ。しかしそれはすでに一種定型的言説のパターンに過ぎず、現にこの私は何の啓発も受けない。一言半句でも良い、定型を超えた、読むものを震撼させる言葉を求めたくなるが、しかしこの種の禅小説は、そのようなものを求めること自体が迷いの中に埋没していることだと告げるだろう。高尚なのか高尚めかした口吻なのか、その両者の間の径庭は極微であるが、しかしそれが悟りの行程を述べる言説である限りは、内実は「相田みつを」的な低俗な人生訓にならざるを得ない。

 剣道、という闘争の技術の枠組みで生を考察する、というのは現在必ずしも有効とは言えない旧套的方法であるし、禅語を持ち出せば、ドイツ観念論哲学の如く労せずして何でも言える。つまり剣禅一如、の世界を今更持ち出されても困るのだ。江戸時代のような閉塞し成熟した社会、自足し停滞した社会の中でなら、剣禅一如は生きるだろう。しかし維新後の日本は現代に至るまで動き続けている。

 この作家の筆力自体は認めざるを得ない。しかしそれは①鍵カッコ内の会話文と内面語、②万能の語り手が書き付ける地の文とが断絶している記述空間内でのレトリック、という意味での筆力である。①と②との言葉の径庭の無惨さを見よ。

 「白川ぁ。おまえ、何、さっきからいってんの ? 矢田部先生に、俺、ぶっとばされたじゃん。やっぱ、かなわねえし」
 建總寺境内を泣き声で波打たせている蝉や、梵鐘の音や、横須賀線の踏み切りの音、風、夕焼け、線香の匂いすべてが、自分と結ばれている ? 自分というよりも、むしろビャクシンの木にへばりついて鳴き喚ている蝉が、自分であっても同じなんじゃね ? と妙なことさえ思う。

 この径庭の無惨さに耐えられない感性があれば、地の文から丸ごと改変する新しい文体への格闘を志すだろう。禅語に文学を還元してはいけない。それに、いくら晦渋な禅語を持ちだしても、この小説は「ブエノスアイレス」でダンスをしている、その代りに剣戟をしているだけなのだ。
 新しい文体の獲得の他にもう一つ方法がある。それは時代小説を書くことである。そうすれば①と②との径庭は消え去ってしまう。無理に現代にこだわらずに時代小説に転身した方が良い。彼の筆力と、剣禅の雑学的知識とで、剣豪小説の傑作は間違いなく書ける。藤沢周という名前が禍して、それはそれで別の意味で難しいかも知れないけれど。
 藤沢の経歴を見れば、気の毒なくらい文学賞とは無縁のようである。ここでつい皮肉を言ってしまう悪い癖が出て、彼が時代小説を書けば、吉川英治文学新人賞は取れるだろう、と言いたくなるのを抑えることが出来ない。山本周五郎賞は無理かもしれないけれど、と余計なこともついつけ加えたりする。しかし、半分以上は親切で言っているつもりだ。彼の資質と筆力が生きる場所はここであろうと思う。
 「山塔」の斯波四郎は森敦の弟子であるという。藤沢周も森敦に「小説を書いた方が良い」と勧められたクチらしい。森のように誰にでも小説を書けと推奨するのも考えものだ。むしろ「小説なぞという不要不急のものなど書くな」という抑圧の方が、いい作家を生むのではないか。

 編集者時代に、森敦に作家になれ、と勧められたときのことを藤沢が書いている。

 「一日一枚書きなさい。一年で三百六十五枚になります。それで芥川賞を取るのです」。菊池寛横光利一に才能を見出され、「酩酊船」(一九三四年)を発表したにもかかわらず、突然放浪生活に入った奇人。何人もの現役作家達が森敦を探し訪ね、小説のヒントやインスピレーションを得ていたというエピソードが脳裏を過ぎる。すでに物故した作家達も、「おまえ、聞け。とにかく聞け」と囁いてくるのだ。静謐なリビングの空間が、「月山」の祈祷簿で作られた紙の蚊帳の繭にも思えてくる。だが、私はそんなチャンスにもかかわらず、「僕は物語が嫌いなんです。ストーリーというもの自体が馬鹿馬鹿しいと思うのです」と不遜にもいってしまった。その時、森敦先生、「物語? そんなものいりません。コレスポンデンスです」。祈祷簿の蚊帳がざわざわと揺れたようだった。

 してみると、時代小説というものも、藤沢には合わないということになる。彼は彼の「月山」を書くしかないのだろうか。どう読んでも「キッチュ」としか思えないような小説を。そもそも「どこかに行きたくともどこにも行けない」時代に、放浪者に訊くべきことが何かある、と思うのも、この世の中のどこかに「ホンモノ」があると思うくらい、甘い幻想なのではないか。

荻野アンナ 再説

 一応「辛口批評」ということにしているが、ヒトサマの作品にケチをつけっ放しというのは心苦しいものだ。それに「テキスト批評」とかしゃれたことを言っても、作者をよく知らないまま受賞作のみ読んで感想を喋喋することには救いがたい不公平さが伴う。
 例えば町田康。彼の後年の傑作「告白」を先に読まずして受賞作「きれぎれ」を読んだら、その「無用の長物」ぶりに辟易して、その内に潜む文学の部分を見落とし、ただそれを罵倒することに終始していたかも知れない。そこで、私の中で低評価に終わった作家で、受賞作以外に読んだことがなく、その人となりもよく知らない作家について、その近作なり評判作なりを読んで、多少なりとも公平を期すことにした(この「公平を期す」という言い方にもナニサマぶりがあらわれているけれど)。
 まずは、「存在そのものが文学に対する侮辱」という最大級の貶辞を受けてしまった荻野アンナである。なかなかここまではよう言わないでしょ。ネットの匿名性に隠れてウジウジ言っている人でもなければ。
 その芥川賞受賞作「背負い水」を読んでの当初の感想は以下の通り。

 語り芸人の芸を連想させた文章がいくつかある。赤染晶子田辺聖子、そしてこの荻野アンナ。さらに米谷ふみ子もおり、米谷氏のは語り芸人というより弁士の能弁を想起させる文章であるが、なぜか全員女性である(庄司薫は多弁であるが、芸人の語りではない)。赤染はさておき、荻野と田辺では、同じ語り芸人でも芸の厚みというものがだいぶ違う。荻野のものはほとんどが定番ネタでいわゆる寒いギャグでしかない。愛恋に関する描写は読んでいて恥ずかしくなるほど紋切型。背負い水、という言葉を聞いたときに小説が書けると思った、という著者の話をどこかで読んだが、そのイメージを深く内在化しているわけでもなんでもなく、唐突につけたりで出てくるだけ。おまけにその水を「柄杓で汲みだしてしまった」とかなんとか。評家よ、何でこれが芥川賞か。それ以前に何でこれが文学か。

 多くの評家が「頓知頓才」、「才気煥発」と認めたこの才筆の、一体どこが私の感覚に逆らったのだろうか。
 私は早速図書館に足を運び、荻野の本を探した。一件目の図書館の、著者名オの棚には荻野の本が見あたらなかった。しめしめ、読むつもりでいたが図書館の蔵書にすらなかったのでいたしかたない、という言い訳が、これで立つ。しかし念のため足を伸ばして隣町の図書館へ。残念、ここにはありました。ざっと六冊ほど。「背負い水」以下、「アンナの工場観光」「空とぶ豚」等等。中で「ホラ吹きアンリの冒険」という本が目に止まり、それを手に取るやたちまちこの本を借りる気になった。そのタイトルといい、その怪しげな装丁といい、これはきっと荻野の信奉するラブレーの文学方法に則って作られた一大創作絵巻であろう、これなら荻野の得意分野のはずだと思ったからである。その時には、荻野がラブレーの研究家であり、その一方で落語を愛し、金原亭駒ん奈という名前で高座にも上がっている、というくらいの知識はあった。ラブレーと落語との類似と径庭、という新たな興味も生じてきた。
 読んでみると、アンリというラテン系アメリカ人が登場し、やおら関西弁とも博多弁ともつかない日本語を話し出した。やった、これぞラブレー的世界、奇想と風刺にみちた、荒唐無稽な話が展開されていくのだろうと期待した。彩色に満ちた荻野の文章もこの虚構にこそ適合している。しかし、ほどなくして「私」が出てきたので面食らった。この「私」は一体誰なのか。マリアンヌやらルイやらが登場する小説の中に、ふいに現われたこの「私」に、これはあるいは人称を混乱させる文学の手法か、ラブレーってそんな手法を取っていたっけか、と考えつつ読みすすめるうちに、ハタと気づいた。あたりまえだが、この「私」は荻野アンナその人ではないか、そしてアンリとは荻野の実父ではないか。ウカツにも私はこの作者の父が外国人であることは、早くに承知していたくせに、表紙絵にある、シーツ一枚に裸身をくるみ、アラビア人らしきものに扮している男が、その実父アンリであることに思い至らずにいたのだ。
 これは、一大虚構創作としての小説などではなく、実の父の生の軌跡をその娘が辿っていくルポルタージュであり、「私小説」なのだとようやく気づいた。しかし、実の父とはいえ、その男は「ホラ吹き」と呼ばざるを得ないような、非現実的な生を送った男である。ここに読者は実直で切実な「私小説」と、心躍るロマンに溢れた「冒険小説」とを同時に味わえるという幸運に浴することが出来たわけだ。
 異常にIQの高い、好奇心に満ちた直情径行の男、アンリ。船乗りになるや、録に学校にも行かずにたちまち船長になりおおせてしまう男。もし、正統的な船長がアンリを見たら、「その存在自体が船長という職業への侮辱である」と感じるであろうかも知れない。読み進めれば、荻野は紛れもなくこういう男の血を引いた娘なのだと知れる。その娘が書いた小説に、好奇心の赴くままに文学に手を染めたような底の浅さを感じ、「その存在自体が文学に対する侮辱である」と感じるのは、無理もないことか。むしろ彼女の融通無碍、一瀉千里の才能を感知すればのことか。
 父アンリもさることながら、アンナの母もまた特異な存在である。画家江見絹子。その狷介固陋な性格。このような父母の元に生まれた荻野は、父の軌跡を辿る旅の果てに、ようやく探していた自分自身を見出す。

 ―過剰と欠落の綴れ織りが、私を育てたゆりかごだった。氷と熱湯の共存が、産湯だった−

 「笑いの文学」こそが文学の最大の難事と考えていながら、荻野アンナの文学を認めないというのは片手落ちだろう。その「笑い」がダジャレ主体であるのが不満であるが、とにかく笑いを志向している文学は貴重である。彼女は文学はもとより実生活でも笑いを追求し、高座にも登れば(自ら寄席で落語を実践した小説家の先輩に、三遊亭夢之助(永井荷風)がいる。最もこれは永井20歳の頃のことで、まだ小説家になる前)、年に一回は大道芸( ! )の実践もしている。寅さんの扮装で啖呵売をするのが持ち芸だと聞く。「さぁさぁ、よってらっしゃい、見てらっしゃい、売るほどあるがなかなか売れない荻野の本」、これには敬服しました。彼女はれっきとした大学教授です。してみれば、「背負い水」も、小説というよりむしろ啖呵売の威勢のいい口上だと思えばよかったのだろう。紋切型には紋切り型の味わい方がある。小気味よい紋切り型の口上を聞くが良い。

 七つ長野の善光寺 八つ谷中の奥寺で竹の柱に茅の屋根
 手鍋さげてもわしゃいとやせぬ。
 信州信濃の新そばよりもあたしゃあなたの側がいい、
 あなた百までわしゃ九十九まで、共にシラミのたかるまで。

 愛する人との死別、うつ病、癌、両親(この、奇人と言うのも愚かな、特異な、それぞれ真逆な性格を備えた二親 ! )の介護と、およそこれ以上もないほどの苦労に苦労を重ねながら、彼女はなおも「笑い」を求めていく。

 涙よりも、笑いを描くほうがましなのです。
 なにしろ、「笑いとは人間の本性」なのですから。
  (「ガルガンチュア」、「」はアリストテレスの言葉)

 「存在自体が文学に対する侮辱」などと言う資格は誰にもない。何よりこの私にはその資格が決定的にない。もし「文学」というものがそう言わせるのだとしたら、その「文学」こそ犬に食われるがよい。

abさんご  その2

 文藝春秋が出たので、さっそく選評を読んでみた。本作をはっきり否定している山田詠美のほかは概ね高評価で、ひらがなで表記された日本語の美に注目している評家が多いことが目立つ。
 不服なのはこの小説に「打ちのめされ」(©米原万理)ている委員が一人もいないことだった。この小説は蓮實重彦の絶賛とともに世に現われたが、絶賛したというのは、批評家としてわずかに居住まいを正してのことであって、絶賛するためにはその前になりふり構わぬ態で打ちのめされる必要がある。然るに芥川賞選考委員は、この小説に新規な工夫や洗練を見るのみで、この小説の言葉が魂に食い込んだという経験は持ち得なかったようだ。つまりこの小説は、いずれの評家にとっても、手のうちのものに過ぎないとして、誰もたじろがずうろたえず、受賞する側の幾分の尊大さとともに、顕彰されたにとどまる。委員がすべて実作家であれば勢いそうなるのだろう。最大限譲って、創作の場で言葉を扱っている人と、単なる一読者とでは、言葉そのものの充溢の質が異なっているということか。作家は誰しも、自分の作品にこそ打ちのめされて欲しいものだろうから。蓮實重彦は実作もするが本籍は批評家である。選考委員に文藝評論家も入れよ、という提案は、芥川賞ではどうなったのだろう。うまい具合に蓮實と利害をことにする(端的には、蓮実に批判された)作家は選考委員にはいないようだし、奥泉委員(堀江委員だったろうか)の挨拶を見ると、蓮實が起端となった「ひとりが多数」という現象が、やはりどうやら起きたようでもある。

 委員の評言の中で、何点か気になった点。

 高樹委員。「大和言葉と一体になることのできる体内リズム、ひらがなを自分の感性と呼吸に沿って自由に意味づける変換力、いや想像力」として大和言葉に着目する。しかし後に述べるが、この小説の文体の特徴は大和言葉につきるものではない。合わせて、小禽、帰着点、幼弱期、さらには家事専従者、家出計画者、有肢爬虫類、情報媒介者などの突兀とした漢語、造成語の多用もまたその特徴である。これは無視できない。

 小川委員。「たとえ語られる意味は平凡でも、言葉のつらなりや音の響きだけで小説は成り立ってしまう」。何を読んでいるのだろう。この小説のどこに平凡な意味があるのか。例えば次のような表現を見て欲しい。どこが、言葉のつらなりと音の響きだけ、なのか。
 ―通過者が通過者でありえたかもしれなかった日がくれて , もどりみちをふさがれた者たちに , そのときやたらな夕焼けがなだれかかってきた―
 ―小いえはたちまち仮寓のすがすがしさをうしない , こうでしかないという卑しさがひしひしと固定していった―<解釈>

 小川洋子の小説のどこを読んでも、このような凡俗な意味にとどまらぬ超絶的表現は出てこない。

 宮本委員。「これでもかというほどの自己陶酔を感じさせる表現」。通常、自己陶酔というものは非難の意味で使われる。しかし、回想という魂の作業の中で、過去の事実の襞に隠された意味を発見することを、単なる自己陶酔とするのはあたらない。仮にそれを陶酔と呼べるとしても、これほどに苦い陶酔があるだろうか。
 「この小説における登場人物は、すべて影であって、影をつくりだす本体は、彼等の住む家と、30年余に及ぶ時間」。そうだろうか。語り手と「家事がかり人」との確執は生々しく、影とは実体から生ずる副次的なものとして言っているのだろうから、すこしあたらないように思う。

 川上委員。「明晰でこなれた文章」。さすがは川上弘美、誰しも、読みづらい、難解だといってしまうところ、私はそれを読み切ったと鮮やかに宣言している。しかし「家庭にはいりこんでくるいやらしい女に対して、あまりに元々の家の住み手が無批判すぎません ?」なとどいうあたり、この見切りが怪しげなものであることがバレてしまう。「家事がかり」が代表する、戦後の卑俗さというものの侵略を、抵抗もしないままズルズルと受け入れてしまう、ある高踏的文化を持った家の敗北こそが、作者が語りたいことなのではないか。しかし川上委員で注目したいのは、そのように読んだ自分にその卑俗さが忍び込んでくることを意識した事だ。「いやらしい女」―語り手の家に侵入してきた使用人―は、語り手も自覚している学究一家の世間的異常さに較べたら、実は単なる健全な生活人なのではないか。戦前の主人筋―使用人、という身分違いから、その使用人と食事を一緒にする事に抵抗を感じ、その抵抗を抜けされない、語り手一家の方が「いやらしい」のではないか。ほかならぬ語り手自身がそれを自覚している。

 ―そのくらしかたがただの停滞などではなく , 二十ねんまえならその者(注―家事がかり)なりにあった基準や平衡が破砕されての異様なゆがみとおもいしらされた者は , だがまたそれはじぶんたち親子のような対処にであったふつうの者のふつうの反応なのかもしれないと , だからその異様はとりもなおさず親子の異様なのだと思い知らされていた―<こま>

 この小説の読み手が、学究的父とその娘との浮世ばなれした暮らしに批判的な目を向けるとき、その反照として、そういう自身の健全さが殆んど卑俗に近いものであることに気づかされる。このことを、私は山田委員の否定的評を読んだときに感じたが、またそれは他ならぬ私自身の読書経験でもあった。人は誰しもこの「家事がかり」を父娘の高踏的生活をかき乱す、図々しい、ふてぶてしいだけの存在と見なす。そして、没落し引き裂かれる父娘の方に感情移入する。しかし実は語り手は単にその「家事がかり」を難じ続けているのではない。語り手の視点は徐々にそこから離脱して行く。
 戦前―戦中―戦後を生きた語り手にとって「家事がかり」は当初「女中」として現われたはずだ。そしてこの、身分をわきまえ、控えめで家事もよくこなす「女中」は、語り手が10才になる戦後2年まで、語り手の家に存在した。それから、もうひとり13歳の頃新しく迎えた「家事がかり」とは、友達のようにつき合う。そして15歳の時の「家事がかり」が問題の人である。このとき1952年、それから語り手が大学卒業と同時に父の家を出る1959年までのあいだ、語り手とこの「家事がかり」との確執が続くのである。丁度この頃、1950年代後半は、「女中」が「家政婦」ないし「お手伝い」に、その呼称と勤務形態を変えていく時期だった。語り手の家に来た父とは26歳も違う若い女性が、そのあと徐々に父の後妻のようになって行くのは、その女性にとっては特に奇異なことではなかった。父の方が「押し入ってくるものをあえてこばむめんどうもいっさいよけていたいたち」の人間であるならなおさらである。
 時代の変化と言えばそれまでだが、仮にも一度文化というものを身につけた人に取っては、時代の変化というものは、「文明の発展」というより、何か「俗的なものの侵入」という意味合いの方が強くなる。語り手が受け止めたものはそれであり、しかもその俗なるものの侵入は、父を奪い取られるという経験を伴うものだったのである。
 もしかしたら、この文体はその「家事がかり」をただ「家事がかり」としてしか呼びたくないがために作られた文体なのかも知れない。もとより、固有名詞でも、人称名詞でも、さらに「お手伝いさん」とも呼びたくはなかったのだ。そしてこの文体なら彼女を「早晩とおりすぎるはずの者」「とてもふてぎわにとてもつらそうに家事がかりをする家事がかり」「ふしぎな同居人」「金銭配分人」と、いくらでも距離をおいた呼び方ができるのだ。

 そのほか、村上龍の評にある、「『完成』ではなく、エネルギーの奔出で、エスタブリッシュメントたちを不快にさせながら、視点と力量を認めさせるのが、優れた新人文学であるべき」というのも面白い。このエスタブリッシュメントには当然村上自身も算入されていなければならない。彼はすっかり大御所になり、大御所になれば、「完成」されすぎているから芥川賞にふさわしくないと否定しながら、当選は喜ぶという様な複雑なことも言わなければならないのかと、感慨を新たにしたことだった。

 石原慎太郎の選評が読めなくなったのは寂しい限り。戯れに彼の選評を捏造してみよう。
  
 「所詮、ただ技巧的人工的な作品でしかない。こんな作品を読んで一体誰が、己の人生に反映して、いかなる感動を覚えるものだろうか。アクチュアルなものはどこにも無い。<さんご>のメタファの意味が伝わってこないし、今日の日本文学の衰弱がうかがえるとしかいいようがない。」
 ―作者は75歳の女性です。
 「なに。文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものはバ*ァだ、と俺が言ったことを無視して、候補にしたのか。俺はもう委員をやめる」
 ―いささか、絲山秋子的ワルノリ。
  というより、彼などにはこの小説は理解不能で、ノーコメント、というのが実際はありえたことだったろう。

 蓮實重彦との受賞後の対談の中で、蓮實が「―である」という語尾に触れて、面白いことを指摘している。曰く「我輩は猫である」とは、「である」を今後使うなという、漱石の禁止である、ということ。曰く、た、だった(の単調性)から、いかに逃げるかというのが、太宰の文体だったということ。興味深いこれらのことを「abさんご」には、「である」が4箇所でしか使われていないことに触れて話している。
 しかし、「である」は実は7箇所で使われていた。これはもちろん「であった」や「であり、」を除いての数値。
 「である」とは微妙にニュアンスが違うが、「のである」については、中井久夫が「私の日本語雑記」の中で面白いことを書いている。

 ―そこで私は読み返すときに「のである」退治をやった。そして「のである」「なのである」は「ここで立ち止まってそれまでの数行を振り返ってください」という印と決めて、このルールを自分に課した。―
 ―対話性を秘めている日本語の文章には第三の聴き手がいて、本当の対話相手は目に見えない、いわば「世間」のようなものではないかと思えてくる。「ではなかろうか」「というわけである」「なのである」などと言うのは世間と言うアンパイアの賛成を得ようとしてのことではないだろうか―

 小説の「である」と、論文の「のである」とは、別次元の話かも知れないが、「abさんご」という、語り手がどこにいるとも知れぬ小説で、「である」という言葉が発せられるときに、語り手がかすかにその姿を見せ、わずかばかり読者の方に顔を向けてくれる気がするのは確かだ。
 「である」は、<予習><虹のゆくえ>の各章に1回づつ、<ねむらせうた>の章に4回、そして最終章<こま>に1回である。最後から2番目の章<ねむらせうた>に、読みながら立ち止まらざるを得ない箇所が多々あると、私は感じたことであった。
 
 平仮名の多用、ということについては、これは日本語の美を示すためと言うより、むしろ言葉にまとわりつく情緒というものを徹底的に排除するためのもののように思われる。たとえば「がっこう」「みゃくらく」「ぎょうぎ」などの音読みする漢語を平仮名に開いても、特に日本語の音韻の美が強調されるわけでもない。これと、特に―者、というかたちで多用される、漢語、「受像者」「改変者」「忘恩者」などの表記は、いずれも言葉にまとわりつく情緒をそぎ落とすためである。前者は、使い古され、手垢のついた言葉を一度「裸」にすることによって、後者は自由自在に漢語を造型し、言葉をよそよそしい突兀としたものにすることによって。特に、「―者」という言葉は、愛憎に絡まれた人間たちをひとしなみにただ無機質なものとして表現できる。そもそも縦書きを避けることの主意は、情緒に纏わりつかれるのを避けるためだと、作家自身が言うところである。単なる「やまとことば」への執着などでは断じてない。もしそうであれば、これほど厳選された言葉からなる小説に「てがみする(手紙する)」などという現代風な言い方が紛れ込むはずもない。
 しかし、もう一つ多用される、「あふれよせる」「ただよいからんでも」「さまよいのこる」等の、動詞を重ねて使う言葉(中井久夫によると、このようなことができる言語は日本語と韓国語の二つだけらしい)には、日本語の音韻の美しさが現われていると思う。「からみひろがる」「さざめきあやす」「ゆれたゆたわせた」と続けられるとき、まるで言葉の色彩と音韻がリボンのように反転しつつ舞うかのようである。
 一方で、山田委員をして「トッポい」と感じさせたものは、委員が例記している「やわらかい檻」「天から降ってくるものをしのぐどうぐ」、というおよそ「物」というものを新たに見直すという試みから出てきた表現より、「見さだめのたりなさはあやされてねむかった」、「いくえにかねじれたこだわりはこだわられた」という、散見される横光利一的な表現の方なのではないか、と推測する。しかし、そのような、言葉への窮屈な身の挟み方というひとつの苦行を通してこそ、
 「さきにじじょうに通じている者たちの気がるな提示に , 意図はくみきれなくても , ただどういう反応がまたれているのかだけはわかって反応してみせるときの , とまどいと投げやりの視野をうめて , さざめきさる妖精たちのつばさはいつも華麗だった」
 というような、表現の超絶に達することができたのだろうと思う。

 推し量れる作者の75年の生涯は決して幸福なものとは言えなかっただろう。長く貧窮のうちに暮らしたらしいことも推し量れる。そのような彼女の生涯に、この受賞があったことを、この上ない浄福のように私は感ずる。75歳、あたかも愛する父の享年の年に自らも達したときに受賞したのだ。この受賞をもたらした蓮實重彦も数え年75歳、この年齢上の偶然に、我が娘に遅ればせの褒章をもたらすために、篤実な学究の徒たる亡き父が、同じく篤実な学究の徒たる蓮實の身に甦ったかのようだ、などと夢想することは許されないにせよ。

 横書き、平仮名、漢語、すべては情緒に身をからみとられることを避けるためである。
 どのようなじょうちょか。
 それは、そのようでしかありえなかった、父との生活に対する甘い悔いのようなものではないか。
 しかし、この情緒の排除、情緒の節約という、禁欲的な営為の果てに、美しい結尾がもたらされる。このとき、地下に沁みこぼれていた情緒が、泉のごとく湧き上がる。

 道が岐れるところにくると , 小児が目をつぶってこまのようにまわる . ぐうぜん止まったほうへ行こうというつもりなのだが , どちらへだかあいまいな向きのことも多く, ふたりでわらいもつれながらやりなおされる . 目をとじた者にさまざまな匂いがあふれよせた . aの道からもbの道からもあふれよせた .

 私はこの小説に打ちのめされた。