文芸的に、もっと文芸的に

2014年から、標記タイトルのブログに移行します。 少し自分の立ち位置を確認しているものの、さほど深い意味はなく、年が改まったので気分一新、というところです。

想像ラジオ(候補作)  いとうせいこう

なかなかこの小説を読む機会がなかった。掲載誌「文藝」は品切れになっていたし、その中古品にははや高値がついていた。私は尋常に単行本を買ったが、そのときすでにそれは12刷になっていた。いざ手元に置くと何だかさっぱり読む気になれず、時折パラパラ…

爪と目  Final

作者がゾンビ映画への愛好を語ったり、選評で「ホラー趣味」(宮本輝)とか「韓国のホラー映画を思わせる」(山田詠美)とか言われたので、私も思わずこの小説を「ホラー小説」と言ってしまったが、それはひとまず撤回しなければならない。これは間違っても「ホ…

爪と目  part3

「安易なヒューマニズム」という言葉にうっかりひっかかって「アンチ・ヒューマニズム」などと言ってしまった。仮にも(一昔前の)フランス現代思想の洗礼を受けたものなら、ここは「ポスト・ヒューマニティー」と言うべきところ。先に示した悪の小説の階梯で…

爪と目  part2

いとうせいこう「想像ラジオ」には、「安易なヒューマニズム」があるという。それが難点らしい。しかし、むしろ「爪と目」のような小説の「安易なアンチ・ヒューマニズム」こそ、難点なのではないか。読む前にこの小説に抱いていた、どうせ「チョイ悪」小説な…

爪と目  藤野可織

「二人称」という変型の方に気を取られていると見過ごされそうだが、ブツ切りの短文が続き、―た。―た。という語尾の単調さが気になる。まるで―ニダ、―スミダが続く韓国語を聞かされているみたいダ。 「あなた」という二人称、これは単に「文学」を偽装するた…

大はずれ

予想は見事に外れました。受賞作「爪と目」は、ニュース解説で聞く限りでは、例の「チョイ悪」小説のような感じ。それに「あなた」という二人称を使っているらしいけれど、この二人称って、欧米語が、あまりにも一人称の縛りが強すぎるので、その縛りから逃…

ノーライフキング  いとうせいこう 

第149回の芥川賞候補者にはなかなか面白そうな作家が揃っているが、本命はやはり「いとうせいこう」だろう。そう思うのは、すでに名のある人をわざわざ候補にして落とすようなことはしないだろう、という単純な理由にもよるが、しかし本当の理由は、今、彼の…

abさんご  その4

単行本「abさんご」には、初期の短編が三編収められている。「毬」「タミエの花」「虹」の三篇で、それらは「タミエ」シリーズと呼ぶべきものである。三歳くらいから小学校初年の頃にいたる幼女の内面が生き生きと綴られている佳品である。―というのは「毬」…

辻仁成 再説

辻仁成「海峡の光」に対する初読時の個人的評価は★(特に読む必要なし)で特段に評価が低いわけではない。しかし、前回の藤沢周のところで出た「ホンモノ」「ニセモノ」のテーマを敷衍するのに、彼は格好の作家である。つまり辻の作家としてのありように思いを…

abさんご その3

この小説の表記法、「ひらがな」の多用とその一方での漢字造成語の多用が、情緒を排除する効果があることは、それなりに得心がいく。この表記法にはさらに残っているもう一つの要素がある。「カタカナ」の排除である。外来語を表記する「カタカナ」はこの小…

藤沢周 再説

荻野アンナに続く再説シリーズの、その2。 藤沢周については、「ニセモノの作家」という、これまたひどい評語を与えている。受賞作「ブエノスアイレス午前零時」の感想を再掲すれば、以下のとおり。 私はこの人の容貌を信頼していた。いい面魂をしているので…

荻野アンナ 再説

一応「辛口批評」ということにしているが、ヒトサマの作品にケチをつけっ放しというのは心苦しいものだ。それに「テキスト批評」とかしゃれたことを言っても、作者をよく知らないまま受賞作のみ読んで感想を喋喋することには救いがたい不公平さが伴う。 例え…

abさんご  その2

文藝春秋が出たので、さっそく選評を読んでみた。本作をはっきり否定している山田詠美のほかは概ね高評価で、ひらがなで表記された日本語の美に注目している評家が多いことが目立つ。 不服なのはこの小説に「打ちのめされ」(©米原万理)ている委員が一人もい…

abさんご  黒田夏子

「早稲田文学」新人賞掲載号の広告で、受賞作家―白髪の老女―の顔貌に触れたとき、時期的に言ってもこの人が芥川賞を取る、という予感がした。そうすると森敦が持っている最年長受賞の記録が大幅に書き換えられることになる。もともと2012年は団塊の世代が63…

論点

ほぼ1年かけての芥川賞受賞作読破を通して得た、さらに考察するにたる興味を残す「論点」の主なものは以下の通り。 ①「意味論」としての文学へ ②「ゴール・シュート」のない小説をどのように享楽するか ③OSの異なる小説とは「標準化」をめぐって戦わなければ…

当選の研究

第147回までの受賞者151人中、初回の候補でそのまま受賞できたという人は75人、ほぼ半数にのぼる。これは、芥川賞作家という才気は、謹厳実直に努力を積み重ねた末に徐々に世間に現われるのではなく、爆発する新星の如く、突然、世界の地平線上に姿を見せる…

落選の研究

前回受賞した鹿島田真希は実に四度目の候補での受賞であるが、芥川賞に数次候補になりながら結局取れなかった人たちの、候補回数の最高記録は六度で、該当者は五人いる。多田尋子、なだいなだ、増田みず子、阿部昭、そして島田雅彦の各氏。次点は五度で、こ…

総括

2012年の1月に始まり同年12月まで、ほぼ1年にわたって、芥川賞受賞作を読んだ。1935年の第1回から2012年前期147回までの受賞作全152編。評価として、プラス評価(☆一読の価値あり)、マイナス評価(★特に読む必要なし)に分け、それぞれの星の数でプラス度、マイ…

受賞作掲載誌など

芥川賞は1935年スタートだが、戦後(1949年)から現在までの間の受賞作掲載誌を見てみると、やはりダントツで「文學界」が一番多く、53作にのぼる。次点は「新潮」で23作、「群像」は3位で19作。次が「文藝」で11作。フタケタはこの四誌。あとは「中…

限りなく透明に近いブルー  村上龍

村上龍の小説をかつて私は愛読し、そのうちのいくつかの作品から、頭の中で何かがパチンと弾け、ある凝り固まった観念から解放されるという経験を得た。すなわち彼の小説は私をより多く自由にしてくれた。しかし中には興味が持続せず最後まで読みおおせなか…

蛍川  宮本輝

この小説は日本の近代文学の一つの極である。「風景の発見」/「国木田独歩的転倒」というものを極めれば、このようにその高度の抒情性を玩味すべき小説になるのだ。たとえそれが偏向であろうと失考であろうと、ここまで極めればそれは何ものかである。ここ…

エーゲ海に捧ぐ  池田満寿夫

イメージの散逸、奔騰ぶりがこの文章を読ませるものにしている。国際電話で会話するという状況設定とともに、短編としてはそれは有効な方法と言える。しかし彼の文業は後にも先にもこれだけである。版画家・彫刻家としての最初からの限界だったのか、それと…

僕って何   三田誠広

文章がリーダブルで好ましいが、逆に言えばそれはという問い、自己分析が甘いためである。学生運動というものがいかに跼蹐したものなのか良く分るという資料性はある。運動家によっては、この小説では遠景視されている暴力にもっと深くコミットした人間もい…

榧の木祭り  高城修三

都会にも西洋にもまだ開かれていない日本の郷村における性風俗としての祭り。性と供犠の秘祭。彼らは元々山人なのだろう。そうであればこそ、食料としての榧の実をもたらす榧の木が神様となる。しかし彼らは同時に白米をお白さまと言って尊重する。農耕に転…

志賀島  岡松和夫  

1975年の時点で評価を受けるような「大東亜戦争」の総括がどういうものなのか、それが良く分る小説。我々は敗戦という事実に決して正面から向かい合っては来ず、ただ和歌の詠嘆や仏教の経文の晦冥をぶつけてそれを凌いできただけなのだ。昔のままの姿を残す…

伸予  高橋揆一郎

のぶよ、という変な名前の女教師が、善吉、という変な名前の生徒に「恋をする」(トチ狂う)らしい物語。―この恋許されるか・・・・というのが文庫本の帯のキャッチだが、そんなもん許されているに決まっているだろ。すべてが許されている状況下で、さてどうすると…

祭りの場  林京子

文章がかなりひどいが、文章がひどいなどという技術的批判を許さない題材であることが辛い。被爆という民族の悲劇を扱う小説の、その欠点を上げつらってもしょうがないのである。今回は、批評は回避して、ただ評家の言に耳を傾けるほかはないような気が私は…

九月の空   高橋三千綱

これって「武士道シックスティーン」の原作 ? 「剣道部活動報告書」か。 銓衡の席上で、誰かが「青春を、青春の時点で書いている」と言っていたらしいが、文学にとっては至難のこの技を、この作が達成しているとは思えない。いくら青春とはいえ少女を描くに…

土の器  阪田寛男

「土の器」とは瀬戸物などのことではなく、キリスト教で言う人間の肉体のこと。キリスト教徒である母の晩年を描く。タイトルにキリスト教を引いた割には、内容はその母を取り巻く親族の仏教的諦念である。 自らの母の病中の苦闘と変貌を描くことに一体何の意…