「芥川賞事件」について

 「蒼氓」のところで書いた太宰の「芥川賞事件」だが、時系列で少し整理してみよう。
太宰が第一回の芥川賞に落選したのは昭和十年の八月である。同年三月、都新聞社の入社試験に落ち、鎌倉で縊死(太宰は生涯で単独二回、心中三回の計五回、自殺未遂ないし既遂がある。これは三回目の未遂)を企てたが失敗。東大を中退する。四月に腹膜炎を起し、このとき鎮痛剤の投与を受けたことが、太宰のパビナール中毒のきっかけになった。
 芥川賞川端康成の選評を読んで太宰は激怒する。「私見によれば、作者目下の生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざる憾みあった」、この厭な雲というのが自殺未遂やパビナール中毒のことである。 太宰はすぐ「文芸通信」10月号に、「川端康成へ」を書いた。その文章は後に「物思う葦」に収められ、新潮文庫で読むことができる(青空文庫でも読める)。川端を憎み、「刺す」とまで思いつめた、と紹介したが、文章の末尾の方には「冷く装うてはいるが、ドストエフスキイふうのはげしく錯乱したあなた(川端)の愛情が私のからだをかっかっとほてらせた」とあり、川端を単に攻撃しているだけのものではない。よく言えば愛憎交々のアンビバレントな感情が表れていると読めるし、悪く言えば薬物中毒による錯乱を思わせる文章である。
 川端もすぐに「文藝通信」11月号に「太宰治氏へ芥川賞について」を書いた。「根も葉もない妄想や邪推はせぬがよい『生活に嫌な雲云々』も不遜の暴言であるならば、潔く取り消す」。とりあえずこれで一段落。時に太宰二十六歳、川端四十六歳。太宰は第一回で候補になって以来佐藤春夫に師事する形になったが、第二回詮衡の前に、その佐藤に「第二回の賞は私に下さいますやう伏して懇願申し上げます」と懇請した。太宰がかくまで芥川賞に執着したのは、芥川龍之介という作家としての存在形態に(その自殺による死も含めて)心酔していたことに合わせて、賞金の500円が魅力的だったことも上げられるだろう。当時太宰は薬物代にあてた借金を抱えており、なおも薬物を必要としていた。
 第二回は、太宰は候補にも上らず、賞自体当選者が出なかった。
 十二月二十五日付けの佐藤春夫から太宰に当てたハガキには、「賞金の500円はやがて君のものとなる」との文面があり、佐藤は中毒に悩む太宰を励ます為に書いたのだろうが、これで太宰は舞い上がってしまう。
 明けて昭和十一年、太宰は禁断症状が出て、佐藤の世話で済生会病院に再入院する。六月ようようその処女小説集「晩年」が上梓される。壇一雄が出版に尽力し、佐藤と井伏鱒二の推薦も得ていた。川端に同書を送ったところ礼状が届いたので、太宰はその返信の中で、第三回の芥川賞は自分にくれるように川端に嘆願する。七月に「晩年」の出版記念会があったが川端は出席しなかったようだ。そして八月の第三回の詮衡会が迫ると、太宰は連日連夜佐藤に手紙・ハガキを送り、三日を置かずに佐藤に会いに行く。あまりのしつこさに佐藤にあきれられ、ついに反感を買ってしまう。「晩年」は候補にすらならなかったのだ。常軌を逸したしつこい懇請が完全に裏目に出ていた。
 ここから先の話が怪異である。
 九月、太宰は新潮十月号に発表される小説「創生記」に「山上通信」という追加原稿を送る。そこには、太宰が佐藤春夫に呼び出され、「晩年」が芥川賞の候補作になっていて皆が推していると伝えられた、と書かれていた。さらに(佐藤)「いちおうお断りして置いたが、おまえほしいか」(太宰)「もし不自然でなかったらもらってください」というやり取りがあったとされていた。同月の文芸時評ですぐ中条(宮本)百合子が「封建的な徒弟気質」と太宰を非難した。そして太宰は十月東京武蔵野病院に入院する。同病院は脳病院、つまり精神科の病院である(一ヵ月後退院)。
 佐藤春夫は十一月、「改造」「芥川賞―憤怒こそ愛の極点(太宰治)」という文章を載せた。それによると、当然太宰が書いたようなやり取りは存在しない。佐藤が太宰を呼んだのは、太宰が一旦預けた原稿を偽りの手段で取りもどして他の雑誌に持って行こうとしたことをたしなめるためだった。太宰も呼ばれる理由を十分承知していて「ハナシアルスグコイ」という電報に「ハイスグマイリマスシカツテハナラヌ」と返信してよこした、という。
 それにしても恥も外聞も捨てたような賞への異常なまでの執着を示しながら、まったくそれとは違う、いつわりの、余裕ある賞への態度(作品は評価されたが、今回は師が受賞を断ったのだ)を文章に表わしたことをどう考えればいいのか。あくまでも錯乱の一環なのか、受賞することをそれほど夢見たのか、それともそれは太宰の根本的な人格的な欠陥を示しているのか。
 第145回(2011年前期)までの数字を見ると、その七十六年間で、芥川賞の総候補者数は六百七十三名を数える。そのうち受賞に至ったのは百四十九名。後直木賞を取った十五名を差し引いて、都合五百九人の作家たち(あるいは作家予備軍で終わった人たち)の胸のうちには同じような愁嘆と断腸があったのかもしれない。賞を辞退した高木卓を引けば、五百八個の魂、直木賞をもらっても尚恨みが残った車谷長吉を加えてやっぱり五百九個の魂