爪と目  part3

 「安易なヒューマニズム」という言葉にうっかりひっかかって「アンチ・ヒューマニズム」などと言ってしまった。仮にも(一昔前の)フランス現代思想の洗礼を受けたものなら、ここは「ポスト・ヒューマニティー」と言うべきところ。先に示した悪の小説の階梯で言うなら④の段階が、(一昔前から)当然の与件である。そしてポスト・ヒューマニティーはいわゆる「安易なヒューマニズム」をもその一部として包摂している。人間は神の助けなど借りずに善に到達できる。ただし同時にいかなる悪も原理的には排除できない。しかし、フランス革命の惨状に胚胎し、デリダにおいて解体してしまったフランス思想をそんなにあがめる必要はないではないか。所詮は王殺しを断行した人間が、如何にして内面の王位を回復すべきか、また帝政と共に英雄をも葬り去った人間が、いかに内面の英雄として復権しうるか、多くはその不可能をめぐる談議がフランス思想である。それに市民が市民の第一人者を選ぶ共和制は時代が降るにつれすっかり劣化しきっている。政治が劣化しているのは日本も例外ではないが、日本には幸い「皇室」がある。十日間で三万人も死んだパリ・コミューンの惨状を見た西園寺公望はそれまではルソーにかぶれていたが、一転、皇室擁護に主義を変えた。ところが日本ではまだ皇室を戴くことが族長をいただくアフリカの部族のごとき未開の所業であると宣伝する向きがある。ルソーかぶれ、西欧かぶれ、コミンテルンかぶれ、もほどほどに。
 このような文化の問題がある日本で、その文化を耕す責務が純文学にはある(少なくとも芥川龍之介にとってはそうであった)のに、「この世界を正確に書き写したい」(?)と言う作家の安易なアンチ・ヒューマニズム・ホラー小説に、芥川の名前を架した賞を与えるとは。そろそろ芥川も俺の名前を使うのはよしてくれ、と言い出すだろう。日本のスティーブン・キングに、というのはもちろんイヤミで、イヤミにしても買いかぶりすぎで、すでに貴志祐介くらいにはなっているので、せいぜいお励みなさい、と言うべきだった。昔、選考委員は村上春樹片岡義男の類似と相違が分からないでいたが、今の委員は藤野と貴志の類似が分からないでいるのか。念のため、皇室において「正しき生」が維持されている限りにおいて、日本文化はもちろん藤野や貴志の小説なども寿ぎ包摂するのである。彼らの営為を否定するのではもちろんない。そもそも否定するほど私は偉くない。しかし、そのような小説に対して授賞するほど芥川賞も偉くないのである。芥川賞の意義は文化の多様性の保証ではあるまい。