爪と目  Final

 作者がゾンビ映画への愛好を語ったり、選評で「ホラー趣味」(宮本輝)とか「韓国のホラー映画を思わせる」(山田詠美)とか言われたので、私も思わずこの小説を「ホラー小説」と言ってしまったが、それはひとまず撤回しなければならない。これは間違っても「ホラー小説」ではない。第一「ホラー」だとしたら分かりにくすぎる。人称や時称の錯綜は「ホラー」の醸成を阻害するだけである。
 たまたまSynodosに載っていた「ドイツを席巻した恐怖小説―ホラー小説の源流」(亀井伸治)という文章を、「ホラー小説」という言葉に惹かれて読んだら、十八世紀の英国ゴシック作家アン・ラドクリフの言葉が紹介されていた。ラドクリフエドマンド・バークの崇高哲学に照らして、「ホラー」とそして「テラー」とを区別する。
 「テラーとホラーは全く反対のものです。前者は、魂を広くし、その機能を高度な人生へと覚醒させます。後者は、魂やその機能を萎縮させ、凍えさせ、絶え絶えの状態にしてしまいます。シェイクスピアもミルトンもその創作の中で、またバーク氏もその考察の中で、純然たるホラーを崇高の源泉と見做すなどということはどこにも言っていないと、わたくしは理解しています。しかし、彼らは皆一致して、テラーこそ崇高の優れた源泉であると認めているのです。」(「詩における超自然」)
 ラドクリフは、幽霊などの超自然現象をそのまま描くことが「ホラー」で、その現象が合理的に解明されたとき「テラー」になる、としているようだが、少なくとも、恐怖に人間の魂の高度な覚醒につながるものと、そうでないものがあるという二分法は参考になる。
 芥川賞を擁護するためには、ここで藤野可織の志向は、当然「テラー」のほうにあるとして、話を締めくくりたくなるが、「高度な人生への覚醒」という「テラー」の定義はどうもうまく彼女の小説には当てはまらない。むしろ「魂やその機能を萎縮させ、凍えさせ、絶え絶えの状態に」するものとしての「ホラー」のほうがしっくりくる。となると、やはりこれは開き直った「ホラー小説」ということになるのだろうか。一度撤回してしまった「ホラー小説」という呼称をやはり彼女に返さなければならないのだろうか。スティーヴン・キング貴志祐介も紛れもないホラーだし。
 キングと言えば面白い現象があって、それは彼の陰惨なだけという原作短編小説が、映画になるとたちまち感動大作になってしまうことがままある、ということだ。「死体」という小説は「スタンド・バイ・ミー」に、「刑務所のリタ・ヘイワース」は「ショーシャンクの空に」に。両作ともキングの作品の中ではいわゆるホラーものではない。ただ作中に横溢する暴力が一種のホラーをもたらすという態の小説である。しかしそれらが映画化されれば、たちまち感動のヒューマン大作ともなってしまうのだ。つまり、このことは「ポスト・ヒューマニティー」の時代では、「ホラー」は何らかの通俗的操作を加えなければ「テラー」とはなりえない、ということを示している様に思われる。藤野の小説が「ホラー」であり「ホラー」にとどまっているということは、むしろ彼女の文学的直観か知的誠実さのなせる業であるとも言える。
 こう見えても、貶すことより誉めることのほうが好きであり得意でもある、という自負が私にある限り、この辺のところで店仕舞いしたほうがいいのかも知れない。しかし、つい余計なことまで言ってしまうというのも私の性である。この先、論を進めれば再び彼女を貶す地点に戻ってくるかもしれない。

 今回の選考委員の評価は面白い。選考委員の年齢で賛否がはっきり分かれている。
 まず最高齢の高樹のぶ子氏(67)の、「冒頭の一文から躓いて評価放棄」を筆頭に、宮本輝(66)、村上龍(61)の、六十代三人組の各氏が揃って否定的評価。続いて五十代の奥泉光(57)、川上弘美(55)、それに少し点は辛いが山田詠美(54)の各氏がおおむね肯定的評価。そしてこの作品を最大限に認めているのは、これを「最高傑作」とする島田雅彦(52)を筆頭に、小川洋子(51)、堀江敏幸(49)の各氏である。年齢でこれだけ綺麗に分かれていることから、そこから何か世代論が引き出せるかと思ったが、そこはさすがに作家諸氏、ある類型に分類されるような生易しい方々ではない。この小説の「方法的斬新度」―二人称の意図と効果を肯定するかどうか―で分かれているわけでもなければ、「テラー」に昇華しないような「ホラー」を否定する、という内容自体への批判で分かれているわけでもなかった。ただたまたま年齢順にきれいに揃ったまでのことなのだろう。しかし、たまたまとは言え、この年齢による整序は何かの予感の様に感じられる。
 笙野頼子の頑強な抵抗にもかかわらず、文学というものがすでに売られ買われるものである以上、「セーの法則」(正確にはケインズによって変形されたセーの販路説)が成り立つはずだ。「供給はそれ自らの需要を作り出す」。これは本当はマクロ経済の均等式を示す法則であるが、これを「需要があるから供給がそれを満たす」ということの反証として読むことは可能である。読者の需要などかまったことではない、供給すればそれは自ら販路を開き、売れていくのである。年配の選考委員がいくら否定しても、次の世代の手による作品が供給されれば、やがてそれは市場を圧倒していくだろう。勝負は生産力だ。生産力において劣れば待っているのは敗退である。―という世代交代の予感を、かすかに感じはした。村上龍も、「エスタブリッシュメント」などと言った途端、すでに追いやられるほうの世代に繰り込まれているのだろう。
 改めて気づいたことは選考委員から「私小説派」―「作り物批判派」が、(約一名を除いて)いなくなってしまった、ということだ。藤野可織氏の作風はこの変化に適合しているし、何よりこれからいよいよ「企み」と「構築」に満ちた小説が出てくるだろうと期待が高まる。それ自体は歓迎すべき兆候であるが、しかし今回の藤野氏はどうか。「文学界」の堀江敏幸氏との対談―概ね退屈な対談―を読んでみると、「(恐竜が)もしかしたら、全身えげつない模様で覆われていて、ものすごく怖いかもしれない。(中略)ただ見ているだけでも、精神的にこたえるような光景が広がっていたかもしれない。それを思うと、わくわくします。」などと言っている。やはり私にとっては彼女は敬して遠ざけておきたいような人である。そして今更の事ながら、朝吹真理子よもっと生産性を発揮せよ、この「虫愛づる姫」の作品の供給が市場を席巻する前に、と檄を飛ばしたくなる。
 それに藤野の「この世界を正確に書き写したい」という発言も、言語論や表象論を学んだ人間にはツッコミどころ満載である。この人には、言語を発した途端、世界がたちまち微妙に変質する、という感覚はないのだろうか。それに少なくとも「世界を正確に書き写して欲しい」などという需要は私にはない。世界を変質させて欲しいという需要ならある。言葉が自立して動き出し、作家の制御を超えて膨満していく。その暴走を抑え、言葉を言葉として馴らしていけるかどうかは、ただひとえに作家の実存にかかっている。私が小説を通して読みたいもの、私の需要はそのようなことである。
 もし本気で「世界を正確に書き写す」ことを志すなら、日本に欠落している「象徴界」への参入が必要なのだ。何時までも「想像界」のトバ口にとどまっていては「世界を正確に書き写す」(リアリズム)ことなど出来はしない。リアリズムの再建をホラー作家やSF作家に託すほど、日本が行き詰まっているわけではないと思うが。
 無益なことながら私の需要をもう一つ言うと、「日本の抒情」を再建すること、詩ではなく小説の責務として、それを再建すること。これが「まだ見ぬ書き手」への私の期待であり、需要である。