想像ラジオ(候補作)  いとうせいこう

 なかなかこの小説を読む機会がなかった。掲載誌「文藝」は品切れになっていたし、その中古品にははや高値がついていた。私は尋常に単行本を買ったが、そのときすでにそれは12刷になっていた。いざ手元に置くと何だかさっぱり読む気になれず、時折パラパラめくっていたりなどしたが、結局読み終えたのは、本作の野間文芸新人賞受賞のニュースが入ったその後だった。
 単行本の帯の宣伝文句、「驚嘆、感涙、絶賛の声、続々」「悲しみと向き合うことで、人は前に進んでいける」、という高湿度の言葉。私は基本的にこういう本は苦手なのである。帯にはさらに読者の声なるものも紹介されていて、それは「打たれました」「泣きました」「涙が止まらない」というようなものである。読者の声にはさまれるように、作家や批評家や編集者などのプロたちの言葉も紹介されている。それは多分もとは長い批評分の一部を抜き出したものであるためか、「打たれました」「泣きました」「涙が止まらない」ということを幾分か文学的に言っているだけのように思われる。このプロとアマのミックスによって、「20代・女性」の「一生大事にしたい一冊に出会えた」というような素朴な言葉も、プロたちの言葉と同価であるように見える。「30代・男性」の「一気に読み終えた。ほんとに一気だった。止まらなかった」という言葉も、である。これらの一般人の言葉が、通販商品カタログのお客様の声の如くに「ヤラセ」であるとは思いたくないが、そう思われても仕方がないくらい、「偏向的」な帯の編集である。
 読み終えて、私は特段の感興を持ち得なかった。考えたことは、「想像力はいまだ文学の金科玉条足りえるか」ということだった。「感動作」であるはずのこの小説に感興を覚えないことに困り果てて、昔のサルトルの「想像力の問題」や、それを受けた吉本隆明の「想像力派の批判」などをネットで探して読んでみたりした。しかしよく分からない。確かに文学の根底にあるべきは悟性と感性の間の溝を埋める想像力であろう。しかし、この小説がその想像力の効用を十全に発揮しているとは思い難かった。この機会に私は吉村昭の「関東大震災」を読み始めた。震災の被災者への慰藉と鎮魂は、和合亮一古川日出男の仕事よりもむしろこちらのほうにあるだろうと思って買い置いていた本だった。現在まだ読み止しであるが、酸鼻と言うも愚かな光景がこの本には繰り広げられている。全てが実際の被災の記録文書から引き写してきた事実であり、想像力の作用はまだここにはない。しかし、文学の効用はむしろこちらの記録文学の方にこそあるような気がする。
 いとうせいこうの作品に期待するのは、彼が「ツッコミ」キャラであるからだと書いた。しかしメディアに登場する作者が「ツッコミ」キャラだからと言ってその作品が必ずしも「ツッコミ」であるわけではない。仮に「関東大震災」と「想像ラジオ」とを無理やり比較してみれば、「関東大震災」=ベタ=シャカイ系、「想像ラジオ」=メタ(ネタではない)=セカイ系、という風になる。ネタを通り越してメタになってしまえば、もうそれは「ツッコミ」ではない。両者の違いはまだある。関東大震災は未曾有の大惨事だが、まだ日清日露両戦役の夥しい死の記憶が残っているので、死に対するいくらかの耐性はまだ国民にあった。対して東日本大震災はどうか。ここにあるのは平和ボケした平成人のうろたえだけなのではないか。この震災に応答した文学が見せてくれる表面的な優しさは、恰も被災地を通り一辺視察した菅直人のそれのようにも思えるのだ。それらの作品に対する正しい反応は、立ち去ろうとする菅直人/作者に向かって「もう帰ってしまうのか」と問うことだろう。
 多分、それは想像力と単なる空想との違いに根ざしている問題である。悟性(概念として外界を捉える)と感性(感覚で外界を捉える)との分裂に苦しんだ人間が、行動するための先導として見出すのが想像力である。苦しみを手っ取り早く癒すために現実から逃避する空想とは違う。
 「文学は滅び芥川賞は残る」という、このブログのタイトルにしたいようなエッセイを書いた井口時男氏は、今回の震災をテーマにした文学で、「文学の倫理」を貫いている作品は二つしかない、と言っている。それは川上弘美「神様2011」と辺見庸の詩集「眼の海」である。後者は辺見を論じたときに私も注目していたが、まだ読む機会を得ていなかった。そして井口氏に言わせれば和合氏の詩も古川氏のルポルタージュも<いまだし>の仕事なのである。和合氏は被災の当事者だし、古川氏も郡山市の出身である。当事者にとっての震災の惨事はそれほど手軽には文学にくるみこめないのだ、と言うかも知れない。それは確かに一面の真実であろうが、辺見氏は石巻出身である。
 それにしても人はなぜこれほど「感動」したがるのか。それともそれは単に出版社のマーケティングの間違いなのか。とにかく「感動」したということは、即ちあなたがこの震災の部外者であることの証左に過ぎない。うまうまと「感動」だけをせしめて、この場を立ち去ろうとする者の耳には、被災者からの「もう帰ってしまうのか」という声は聞こえないだろう。
 高橋源一郎の「恋する原発」も、自由に想像力を駆使した作品に見えながら、井口氏が正しく言う如く「(その)倫理はいまだ及び腰の倫理である。ただ、自分の身を安全圏に置いた上で、「自粛」の中で「不謹慎」な作品を発表したというパフォーマンスの効果だけは獲得できる」というものに過ぎない。
 「関東大震災」を読み継いで、そこに吉村昭の文学者としての想像力が駆動されるかどうか見てみよう。川上弘美辺見庸の作品も読んでみよう。それでもし不全感が残るのなら、やはり関東大震災に戻って、内田百輭の随筆や田山花袋「東京震災記」、井伏鱒二荻窪風土記」、大岡昇平「少年」、などを読んでみるのが良いように思われる。