2012-02-01から1ヶ月間の記事一覧
アンチ私小説派たる私は、「企み」と「構築」のこの小説を本来は支持すべきであるが、残念ながら到底支持できる小説ではなかった。なんだか出来の悪い関西漫才でも聞かされているみたいだった。ブツ切りのショートセンテンスなので、意味を読み取るのは比較…
高等小学、というのは今で言う何年生なのか。多分中学くらいなのだろうけれど、子供たちの会話からも、先生たちの彼等の扱い振りからも、明確な年齢のイメージが湧いてこない。これは野溝七生子のような「肉食系」少女の、しかし「山梔」のような内的な発露…
プルーストの長大な小説「失われた時を求めて」を読み通した人間になりたい、というだけの動機で同作を読破したが、それは読書体験としては概ね退屈なものでしかなかった。だから、この小説にも退屈したのは致し方ない。そもそも長編であれ短編であれ「感覚…
舞台は日本のどこかの寒村で、そこには文化も何もない、ただギリギリ生存だけが関心ごとである。そこに業つく婆あが住んでおり、亡命ロシア人が紛れ込んでくる。こういう道具立てなので、てっきり金貸しの老婆を殺害したラスコーリニコフの向うを張って、日…
作中、「頭の悪い文芸評論家や編輯者みてえな 生っ齧りのごたく」という言葉があるが、これだけでも西村賢太の腕力は信頼すべきだろう。 いきなり、「嚢時」(のうじ)とカマしたのに始まり、なかなか味な語彙を開陳する。「閑所」(かんじょ)、「慊い」(あきた…
文中、「・・・」が頻発するのが難点。このような、「・・・」を多用する文章は文章としては低格である。会話文にも地の文にも出てくる、この「・・・」はイコール余韻、言葉の外部なのだが、それを指し示すのみで、潔く断念するわけでもなく、追及するわけ…
セマンティックスを解除してシンタックスのみで文章を駆動させること。プラグマティックスはもとより排し尽くされている。それは「受賞の言葉」やスピーチで発揮すれば良い。記憶も頼みにならず、データベースもあてにならず、あるのは盲目のシンタックスの…
強欲で非情かつ好色な、いわば「大衆の原像」である「片野」という男の生き方が小気味良く描かれている。その片野は金銭目当てであるとはいえ、余人の及ばぬような美しい菊を育てもするのだ。片野の強欲に手を焼きながら、昔日の恩から彼と離れられず、その…
その受賞会見が話題になったので、YouTubeで見てみたらびっくり。思わず「ダメだコリャ」、というチョーさんのような嘆息が出た。「小心臆病な、感受性過度の、緊張過度の、分裂性気質の青年」、というのは三島由紀夫が「小説とは何か」の中で描いた小説の読…
糞尿汲み取り業をめぐる政界、業界の駆け引き、謀略と裏切り、というような話なので鎌田慧風ルポルタージュでやればいいと思うが、これは小説である。そしてその小説的特性が話を分りにくくする方向に作用しているだけのように思える。全く地方政界ではかく…
私小説なので当然「私」語りなのだが、この「私」、とんでもなく尊大である。芸術に携わっているといういい気な自己矜持から、すべてを「上から目線」で見ているのだ。本人は、母も兄弟も裏切り、所帯ではナイーヴにDVまで働く、どうしようもない男であるに…
「蒼氓」のところで書いた太宰の「芥川賞事件」だが、時系列で少し整理してみよう。 太宰が第一回の芥川賞に落選したのは昭和十年の八月である。同年三月、都新聞社の入社試験に落ち、鎌倉で縊死(太宰は生涯で単独二回、心中三回の計五回、自殺未遂ないし既…
(私小説的)心理小説と読んだけれど、評家は描写小説、絵としての小説と見なしているようだ。なるほど心理と言ってもそこにあるのは定形的なものだけなので、それすらも風景の一部とされないことはない。主人公の懸想の相手、桂夫人とあってその名を明かされ…
読んでも読んでも一向に面白くならない。東西に亘る学識の開陳は、活字中毒者には一掬の美酒足りうるかもしれないが、文学としては行くところも帰るところもない偏屈な徘徊老人の繰言のようなものに過ぎない。幼時、漢学者の祖父から漢文の素読を仕込まれた…
昭和十一年、恰も二二六事件の年に、日本人とアイヌとの戦いを描くこの小説が受賞した。作中に 「国土(モシリ)の何にでも欲深い目を輝かせる日本人(シャモ)」という言葉があるが、これは満州に王道楽土を夢見る日本人の目であり、同時に太平洋に侵略するロシ…