きことわ  朝吹真理子

 プルーストの長大な小説「失われた時を求めて」を読み通した人間になりたい、というだけの動機で同作を読破したが、それは読書体験としては概ね退屈なものでしかなかった。だから、この小説にも退屈したのは致し方ない。そもそも長編であれ短編であれ「感覚」や「観念」だけの小説には満足できないタチである。それに人は朝吹の五官の冴えに感嘆するけれど、それは作家の最低条件に過ぎないのではないか。もっともその最低条件を満たさない作家もいるので致し方ないが。
 作中使われた「融滌(ゆうでき)」という言葉に感嘆して、大江健三郎が朝吹に大野晋の「古典基礎語辞典」を贈呈している。羨ましい。同辞典は古本でも結構高いのだ。朝吹の偏愛する語彙はほかにも、「ひだるい」饑い(ひもじい、空腹である)、「垂れる」(しずれる)、という和語、「霑酔」(てんすい)という漢語もある。後者は凄い。広辞苑に出ていない言葉だ。漢和辞典で調べると、十分に酔う、とある。文章内に散在するこれらの希少な語彙は、ちょっとした現実の異化効果をもたらしてくれる。現在では、現実自体がすでに相当に異化されたものなので、この程度の「異化」が丁度いい按配である。
 水族館の魚や、食材のあれこれ、化粧品の種類、これらの物の名前たちを丁寧に書き付けるとき、朝吹は世界の中に自分が間違いなくいることを確かめているかのようだ。そして、美男葛、百日紅、はまゆう、はまなす、はまなでしこ、半夏生(はんげしょう)、水引草と、植物の名前をときどき文章に呼び出しては、紙面を美しく装え、そして先に進んでいく。
 貴子と永遠子がそれぞれ別々に何ものかに髪を後から引っ張られるような体験をする。これは何だろうか。かつて二人が髪を絡ませていたことと関係するのだろうけれど。山田詠美は「後ろ髪を引くものそのもの」と言った。なーるほど、と言ってはみたものの実はまだ良く分っていない。

第144回
2010年 後期
個人的評価 ★

カイ  天性の受感の鋭さ(高樹のぶ子)
ヤリ  冗漫、退屈(石原慎太郎)