乙女の密告  赤染晶子

  アンチ私小説派たる私は、「企み」と「構築」のこの小説を本来は支持すべきであるが、残念ながら到底支持できる小説ではなかった。なんだか出来の悪い関西漫才でも聞かされているみたいだった。ブツ切りのショートセンテンスなので、意味を読み取るのは比較的ラクだが、しかし勁さを求めてブツ切りにしているわけでもなく、詩藻なるものを排除するためにしているのでもなさそうだ。要するに、この文章は読者たる私の血の中には入ってこなかった。表面上いかにドタバタであっても、アンネ・フランクの悲劇が著者に内在化されていれば、それは「技巧的」「人工的」などという定型の批判を跳ね返すはずである。しかしこの小説はとてもその批判に対抗できない。内在化するとは「血を吐くように書く」と言明することではない。結果、現出したのは、アンネに関するあまりに生硬な知識の羅列でしかなく、それは単なるウンチク話にしか聞こえないのである。
  ○ヘト・アハテルハイス(アンネの日記の原題、オランダ語で「奥の部屋」という意味)、
  ○ミープ・ヒース(アンネの関係者中唯一の生存者)、
  ○ファン・マーレン(密告者として疑われた人物)、
  ○7.5ギルダー(密告の対価。8人が密告され報奨金60ギルダー)、
  ○1944年8月1日火曜日(日記の最後の日付)、
  ○ジルバーバウワー(アンネを連行したゲシュタポ警察官)、
 などと言うことが、単に知識として開陳されるのを我々はありがたがって聞くしかないかのようである。最後にはオランダ語の原書を参考にしたことまで得々と書き付けるのを聞かされる。一方で、肝腎の乙女の「密告」の寓意が読者の血の中に伝わってこない。それに誰もが密告者になりうる、という事実は、アンネを匿った人がいたという事実以上に重いわけではない。とにかく消化不良の、ひとり相撲のような低レベルの「小説」ではある。
 社会学で言う「設計主義」と「自生的秩序」とは、恰も文学におけるロマン主義自然主義との相克に相当するかのようだ。設計主義で書かれた小説の中に自生的秩序をもたらすものこそ、作者の才能というものだろう。この作者は学究の徒ではあっても、小説の才能はあまりない。才能がなければ、それは頭で書かれたもの、血と肉のない、みすぼらしい骨と筋だけのものに終わってしまうのだ。
 血を吐くように書く人は、自ら血を吐いて書くとは言わないだろう。それでペンネームが赤染とは悪い冗談である(赤染衛門に由来するらしいが)。それに日本人が血を吐いて書くべきものはほかにある。

第143回
2010年 前期
個人的評価 ★★

カイ かくも重い主題をかくも軽い枠に盛り込んだ作者の伎倆は尋常でない(池澤夏樹)
ヤリ 誰もが密告者になり得るという真実は、もっと緻密に、そして抑制して書かなければいけない(村上龍)

 大江健三郎は「古典基礎語辞典」を朝吹にではなく、この人にこそあげるべきだったのに。類―種―個、の種(日本人)をとっぱらったコスモポリタン同志として。