想像ラジオ(候補作)  いとうせいこう

 なかなかこの小説を読む機会がなかった。掲載誌「文藝」は品切れになっていたし、その中古品にははや高値がついていた。私は尋常に単行本を買ったが、そのときすでにそれは12刷になっていた。いざ手元に置くと何だかさっぱり読む気になれず、時折パラパラめくっていたりなどしたが、結局読み終えたのは、本作の野間文芸新人賞受賞のニュースが入ったその後だった。
 単行本の帯の宣伝文句、「驚嘆、感涙、絶賛の声、続々」「悲しみと向き合うことで、人は前に進んでいける」、という高湿度の言葉。私は基本的にこういう本は苦手なのである。帯にはさらに読者の声なるものも紹介されていて、それは「打たれました」「泣きました」「涙が止まらない」というようなものである。読者の声にはさまれるように、作家や批評家や編集者などのプロたちの言葉も紹介されている。それは多分もとは長い批評分の一部を抜き出したものであるためか、「打たれました」「泣きました」「涙が止まらない」ということを幾分か文学的に言っているだけのように思われる。このプロとアマのミックスによって、「20代・女性」の「一生大事にしたい一冊に出会えた」というような素朴な言葉も、プロたちの言葉と同価であるように見える。「30代・男性」の「一気に読み終えた。ほんとに一気だった。止まらなかった」という言葉も、である。これらの一般人の言葉が、通販商品カタログのお客様の声の如くに「ヤラセ」であるとは思いたくないが、そう思われても仕方がないくらい、「偏向的」な帯の編集である。
 読み終えて、私は特段の感興を持ち得なかった。考えたことは、「想像力はいまだ文学の金科玉条足りえるか」ということだった。「感動作」であるはずのこの小説に感興を覚えないことに困り果てて、昔のサルトルの「想像力の問題」や、それを受けた吉本隆明の「想像力派の批判」などをネットで探して読んでみたりした。しかしよく分からない。確かに文学の根底にあるべきは悟性と感性の間の溝を埋める想像力であろう。しかし、この小説がその想像力の効用を十全に発揮しているとは思い難かった。この機会に私は吉村昭の「関東大震災」を読み始めた。震災の被災者への慰藉と鎮魂は、和合亮一古川日出男の仕事よりもむしろこちらのほうにあるだろうと思って買い置いていた本だった。現在まだ読み止しであるが、酸鼻と言うも愚かな光景がこの本には繰り広げられている。全てが実際の被災の記録文書から引き写してきた事実であり、想像力の作用はまだここにはない。しかし、文学の効用はむしろこちらの記録文学の方にこそあるような気がする。
 いとうせいこうの作品に期待するのは、彼が「ツッコミ」キャラであるからだと書いた。しかしメディアに登場する作者が「ツッコミ」キャラだからと言ってその作品が必ずしも「ツッコミ」であるわけではない。仮に「関東大震災」と「想像ラジオ」とを無理やり比較してみれば、「関東大震災」=ベタ=シャカイ系、「想像ラジオ」=メタ(ネタではない)=セカイ系、という風になる。ネタを通り越してメタになってしまえば、もうそれは「ツッコミ」ではない。両者の違いはまだある。関東大震災は未曾有の大惨事だが、まだ日清日露両戦役の夥しい死の記憶が残っているので、死に対するいくらかの耐性はまだ国民にあった。対して東日本大震災はどうか。ここにあるのは平和ボケした平成人のうろたえだけなのではないか。この震災に応答した文学が見せてくれる表面的な優しさは、恰も被災地を通り一辺視察した菅直人のそれのようにも思えるのだ。それらの作品に対する正しい反応は、立ち去ろうとする菅直人/作者に向かって「もう帰ってしまうのか」と問うことだろう。
 多分、それは想像力と単なる空想との違いに根ざしている問題である。悟性(概念として外界を捉える)と感性(感覚で外界を捉える)との分裂に苦しんだ人間が、行動するための先導として見出すのが想像力である。苦しみを手っ取り早く癒すために現実から逃避する空想とは違う。
 「文学は滅び芥川賞は残る」という、このブログのタイトルにしたいようなエッセイを書いた井口時男氏は、今回の震災をテーマにした文学で、「文学の倫理」を貫いている作品は二つしかない、と言っている。それは川上弘美「神様2011」と辺見庸の詩集「眼の海」である。後者は辺見を論じたときに私も注目していたが、まだ読む機会を得ていなかった。そして井口氏に言わせれば和合氏の詩も古川氏のルポルタージュも<いまだし>の仕事なのである。和合氏は被災の当事者だし、古川氏も郡山市の出身である。当事者にとっての震災の惨事はそれほど手軽には文学にくるみこめないのだ、と言うかも知れない。それは確かに一面の真実であろうが、辺見氏は石巻出身である。
 それにしても人はなぜこれほど「感動」したがるのか。それともそれは単に出版社のマーケティングの間違いなのか。とにかく「感動」したということは、即ちあなたがこの震災の部外者であることの証左に過ぎない。うまうまと「感動」だけをせしめて、この場を立ち去ろうとする者の耳には、被災者からの「もう帰ってしまうのか」という声は聞こえないだろう。
 高橋源一郎の「恋する原発」も、自由に想像力を駆使した作品に見えながら、井口氏が正しく言う如く「(その)倫理はいまだ及び腰の倫理である。ただ、自分の身を安全圏に置いた上で、「自粛」の中で「不謹慎」な作品を発表したというパフォーマンスの効果だけは獲得できる」というものに過ぎない。
 「関東大震災」を読み継いで、そこに吉村昭の文学者としての想像力が駆動されるかどうか見てみよう。川上弘美辺見庸の作品も読んでみよう。それでもし不全感が残るのなら、やはり関東大震災に戻って、内田百輭の随筆や田山花袋「東京震災記」、井伏鱒二荻窪風土記」、大岡昇平「少年」、などを読んでみるのが良いように思われる。

爪と目  Final

 作者がゾンビ映画への愛好を語ったり、選評で「ホラー趣味」(宮本輝)とか「韓国のホラー映画を思わせる」(山田詠美)とか言われたので、私も思わずこの小説を「ホラー小説」と言ってしまったが、それはひとまず撤回しなければならない。これは間違っても「ホラー小説」ではない。第一「ホラー」だとしたら分かりにくすぎる。人称や時称の錯綜は「ホラー」の醸成を阻害するだけである。
 たまたまSynodosに載っていた「ドイツを席巻した恐怖小説―ホラー小説の源流」(亀井伸治)という文章を、「ホラー小説」という言葉に惹かれて読んだら、十八世紀の英国ゴシック作家アン・ラドクリフの言葉が紹介されていた。ラドクリフエドマンド・バークの崇高哲学に照らして、「ホラー」とそして「テラー」とを区別する。
 「テラーとホラーは全く反対のものです。前者は、魂を広くし、その機能を高度な人生へと覚醒させます。後者は、魂やその機能を萎縮させ、凍えさせ、絶え絶えの状態にしてしまいます。シェイクスピアもミルトンもその創作の中で、またバーク氏もその考察の中で、純然たるホラーを崇高の源泉と見做すなどということはどこにも言っていないと、わたくしは理解しています。しかし、彼らは皆一致して、テラーこそ崇高の優れた源泉であると認めているのです。」(「詩における超自然」)
 ラドクリフは、幽霊などの超自然現象をそのまま描くことが「ホラー」で、その現象が合理的に解明されたとき「テラー」になる、としているようだが、少なくとも、恐怖に人間の魂の高度な覚醒につながるものと、そうでないものがあるという二分法は参考になる。
 芥川賞を擁護するためには、ここで藤野可織の志向は、当然「テラー」のほうにあるとして、話を締めくくりたくなるが、「高度な人生への覚醒」という「テラー」の定義はどうもうまく彼女の小説には当てはまらない。むしろ「魂やその機能を萎縮させ、凍えさせ、絶え絶えの状態に」するものとしての「ホラー」のほうがしっくりくる。となると、やはりこれは開き直った「ホラー小説」ということになるのだろうか。一度撤回してしまった「ホラー小説」という呼称をやはり彼女に返さなければならないのだろうか。スティーヴン・キング貴志祐介も紛れもないホラーだし。
 キングと言えば面白い現象があって、それは彼の陰惨なだけという原作短編小説が、映画になるとたちまち感動大作になってしまうことがままある、ということだ。「死体」という小説は「スタンド・バイ・ミー」に、「刑務所のリタ・ヘイワース」は「ショーシャンクの空に」に。両作ともキングの作品の中ではいわゆるホラーものではない。ただ作中に横溢する暴力が一種のホラーをもたらすという態の小説である。しかしそれらが映画化されれば、たちまち感動のヒューマン大作ともなってしまうのだ。つまり、このことは「ポスト・ヒューマニティー」の時代では、「ホラー」は何らかの通俗的操作を加えなければ「テラー」とはなりえない、ということを示している様に思われる。藤野の小説が「ホラー」であり「ホラー」にとどまっているということは、むしろ彼女の文学的直観か知的誠実さのなせる業であるとも言える。
 こう見えても、貶すことより誉めることのほうが好きであり得意でもある、という自負が私にある限り、この辺のところで店仕舞いしたほうがいいのかも知れない。しかし、つい余計なことまで言ってしまうというのも私の性である。この先、論を進めれば再び彼女を貶す地点に戻ってくるかもしれない。

 今回の選考委員の評価は面白い。選考委員の年齢で賛否がはっきり分かれている。
 まず最高齢の高樹のぶ子氏(67)の、「冒頭の一文から躓いて評価放棄」を筆頭に、宮本輝(66)、村上龍(61)の、六十代三人組の各氏が揃って否定的評価。続いて五十代の奥泉光(57)、川上弘美(55)、それに少し点は辛いが山田詠美(54)の各氏がおおむね肯定的評価。そしてこの作品を最大限に認めているのは、これを「最高傑作」とする島田雅彦(52)を筆頭に、小川洋子(51)、堀江敏幸(49)の各氏である。年齢でこれだけ綺麗に分かれていることから、そこから何か世代論が引き出せるかと思ったが、そこはさすがに作家諸氏、ある類型に分類されるような生易しい方々ではない。この小説の「方法的斬新度」―二人称の意図と効果を肯定するかどうか―で分かれているわけでもなければ、「テラー」に昇華しないような「ホラー」を否定する、という内容自体への批判で分かれているわけでもなかった。ただたまたま年齢順にきれいに揃ったまでのことなのだろう。しかし、たまたまとは言え、この年齢による整序は何かの予感の様に感じられる。
 笙野頼子の頑強な抵抗にもかかわらず、文学というものがすでに売られ買われるものである以上、「セーの法則」(正確にはケインズによって変形されたセーの販路説)が成り立つはずだ。「供給はそれ自らの需要を作り出す」。これは本当はマクロ経済の均等式を示す法則であるが、これを「需要があるから供給がそれを満たす」ということの反証として読むことは可能である。読者の需要などかまったことではない、供給すればそれは自ら販路を開き、売れていくのである。年配の選考委員がいくら否定しても、次の世代の手による作品が供給されれば、やがてそれは市場を圧倒していくだろう。勝負は生産力だ。生産力において劣れば待っているのは敗退である。―という世代交代の予感を、かすかに感じはした。村上龍も、「エスタブリッシュメント」などと言った途端、すでに追いやられるほうの世代に繰り込まれているのだろう。
 改めて気づいたことは選考委員から「私小説派」―「作り物批判派」が、(約一名を除いて)いなくなってしまった、ということだ。藤野可織氏の作風はこの変化に適合しているし、何よりこれからいよいよ「企み」と「構築」に満ちた小説が出てくるだろうと期待が高まる。それ自体は歓迎すべき兆候であるが、しかし今回の藤野氏はどうか。「文学界」の堀江敏幸氏との対談―概ね退屈な対談―を読んでみると、「(恐竜が)もしかしたら、全身えげつない模様で覆われていて、ものすごく怖いかもしれない。(中略)ただ見ているだけでも、精神的にこたえるような光景が広がっていたかもしれない。それを思うと、わくわくします。」などと言っている。やはり私にとっては彼女は敬して遠ざけておきたいような人である。そして今更の事ながら、朝吹真理子よもっと生産性を発揮せよ、この「虫愛づる姫」の作品の供給が市場を席巻する前に、と檄を飛ばしたくなる。
 それに藤野の「この世界を正確に書き写したい」という発言も、言語論や表象論を学んだ人間にはツッコミどころ満載である。この人には、言語を発した途端、世界がたちまち微妙に変質する、という感覚はないのだろうか。それに少なくとも「世界を正確に書き写して欲しい」などという需要は私にはない。世界を変質させて欲しいという需要ならある。言葉が自立して動き出し、作家の制御を超えて膨満していく。その暴走を抑え、言葉を言葉として馴らしていけるかどうかは、ただひとえに作家の実存にかかっている。私が小説を通して読みたいもの、私の需要はそのようなことである。
 もし本気で「世界を正確に書き写す」ことを志すなら、日本に欠落している「象徴界」への参入が必要なのだ。何時までも「想像界」のトバ口にとどまっていては「世界を正確に書き写す」(リアリズム)ことなど出来はしない。リアリズムの再建をホラー作家やSF作家に託すほど、日本が行き詰まっているわけではないと思うが。
 無益なことながら私の需要をもう一つ言うと、「日本の抒情」を再建すること、詩ではなく小説の責務として、それを再建すること。これが「まだ見ぬ書き手」への私の期待であり、需要である。

爪と目  part3

 「安易なヒューマニズム」という言葉にうっかりひっかかって「アンチ・ヒューマニズム」などと言ってしまった。仮にも(一昔前の)フランス現代思想の洗礼を受けたものなら、ここは「ポスト・ヒューマニティー」と言うべきところ。先に示した悪の小説の階梯で言うなら④の段階が、(一昔前から)当然の与件である。そしてポスト・ヒューマニティーはいわゆる「安易なヒューマニズム」をもその一部として包摂している。人間は神の助けなど借りずに善に到達できる。ただし同時にいかなる悪も原理的には排除できない。しかし、フランス革命の惨状に胚胎し、デリダにおいて解体してしまったフランス思想をそんなにあがめる必要はないではないか。所詮は王殺しを断行した人間が、如何にして内面の王位を回復すべきか、また帝政と共に英雄をも葬り去った人間が、いかに内面の英雄として復権しうるか、多くはその不可能をめぐる談議がフランス思想である。それに市民が市民の第一人者を選ぶ共和制は時代が降るにつれすっかり劣化しきっている。政治が劣化しているのは日本も例外ではないが、日本には幸い「皇室」がある。十日間で三万人も死んだパリ・コミューンの惨状を見た西園寺公望はそれまではルソーにかぶれていたが、一転、皇室擁護に主義を変えた。ところが日本ではまだ皇室を戴くことが族長をいただくアフリカの部族のごとき未開の所業であると宣伝する向きがある。ルソーかぶれ、西欧かぶれ、コミンテルンかぶれ、もほどほどに。
 このような文化の問題がある日本で、その文化を耕す責務が純文学にはある(少なくとも芥川龍之介にとってはそうであった)のに、「この世界を正確に書き写したい」(?)と言う作家の安易なアンチ・ヒューマニズム・ホラー小説に、芥川の名前を架した賞を与えるとは。そろそろ芥川も俺の名前を使うのはよしてくれ、と言い出すだろう。日本のスティーブン・キングに、というのはもちろんイヤミで、イヤミにしても買いかぶりすぎで、すでに貴志祐介くらいにはなっているので、せいぜいお励みなさい、と言うべきだった。昔、選考委員は村上春樹片岡義男の類似と相違が分からないでいたが、今の委員は藤野と貴志の類似が分からないでいるのか。念のため、皇室において「正しき生」が維持されている限りにおいて、日本文化はもちろん藤野や貴志の小説なども寿ぎ包摂するのである。彼らの営為を否定するのではもちろんない。そもそも否定するほど私は偉くない。しかし、そのような小説に対して授賞するほど芥川賞も偉くないのである。芥川賞の意義は文化の多様性の保証ではあるまい。

爪と目  part2

  いとうせいこう「想像ラジオ」には、「安易なヒューマニズム」があるという。それが難点らしい。しかし、むしろ「爪と目」のような小説の「安易なアンチ・ヒューマニズム」こそ、難点なのではないか。読む前にこの小説に抱いていた、どうせ「チョイ悪」小説なのだろうという予見は外れた。「チョイ悪」小説がそうであるように、ラストの見得で「悪」から立ち去るそぶりを見せる、ということはなかったから。―切りの、「あとはだいたい、おなじ。」というのは、限りなくそのそぶりに近いけれど―。
 選評を読んでみることにしよう。
 まず気づかされたのは、私に誤読があったこと。「あなた」に幼児がのしかかるのがおかしい、と言ったが、これは時間をミックスするという手法に錯覚を与えられただけで、のしかかったのは実は「わたし」がもう少し成長してからのことらしい。となると「わたし」が「園児たちの中でも抜きん出て体格のいい」「丸々と太り、ふてぶてしい頬をし」「服いっぱいに、ぎっちりと肉が詰まっている」という設定は、あるいはこの錯覚をもたらすための意識的に持ち込まれたものなのかもしれない。これは、ミステリーで犯人像を撹乱するためにしばしば用いられる手口に近い。
 とにかく、誤読してしまったという狼狽から、私は何か難癖をつけるネタを探し出すのであって、つまり、映画でも何でも、その「十日前」とか、その「四年後」とか時間をシャッフルさせたものに面白い映画があったためしがないとか、言ってみたくなるのだ。つまり時間をストレートなものに直してたどれるストーリーがそもそも面白くなければ、それをいくらシャッフルしても面白くなりようはずがない。映画に関してはそれが結論。しかしこちらは小説である。小説ではどうか。これだけ物語が氾濫している世界で、ストレートな時間下でなされたナラティヴは何らかの定型に回収され、すぐ底が見えてしまう。そこで物語延命の手段として時間シャッフルを用いる。それらの拡散した時間は、読者の現在という時間に集約される過程で、何らかの物語の効用の残存効果を発揮する。
 しかし、肝心なことはこの小説ではそれが、過去が追憶という人間の精神浄化作用としてではなく、未来が希望という人間の敬虔な精神の発露としてではなく、あくまでも現在という時間の上に現れた無機質な想念に過ぎないものとして扱われている、ということだ。追憶したり、希望を抱いたりすることが、人間の人間的な要素であるとしたら、これはやはり、アンチ・ヒューマニズムである。そしてこれらがただ作者の、「怖いもの」「恐怖」への執着から呼び出されているのであれば、それは「安易な」アンチ・ヒューマニズムと呼ぶしかない。
 安易なアンチ・ヒューマニズムの小説。
 ―もしかしたら、現在におけるリアリズムの小説。
 「希望」を希望しようとする営為が、「安易なヒューマニズム」として排されたように、現在では追憶とか希望とかいう精神機能は失墜している。その現在下では、人間の「内面」は不定形足らざるを得ないという洞察に基づく、リアリズムの小説なのでこれはあるのかも知れない。それでも尚、ここに「安易な」という言葉を付け加えなければならないだろう。
 とりあえず、ヒューマニズムであれ、そのアンチであれ、さらにはリアリズムであれ、とにかく「安易」なものは良くない、というところに話を収めておこう。

 「悪」に賭け金が置かれた小説の階梯。

①最後に「悪」から立ち去るそぶりを見せる、偽悪的小説―「チョイ悪」小説。
②安易なアンチ・ヒューマニズム―多くのホラー小説。
③アンチ・ヒューマニズム
④そもそもアンチとして対置すべきヒューマニズムの不在を与件とする非社会的小説(何かの手違いでもなければ、通常は世間に流通しない)
近年、③の秀作として辻原登「冬の旅」がある(この小説はもしかしたら④)。そうすると①でないところはいいとしても、せいぜい②であるに過ぎないものに満足な方はどうぞ、と言うのが妥当なところ。

 さて、選評を読むのであった。
 あまりビビッとくる評はなかった。奥泉委員や堀江委員の参加により、選評は大いに重厚なもの―言い換えれば優等生的なもの―になっており、あまりツッコミどころがない。読んでヒヤヒヤするのは例によって島田委員のそれくらいで、後は安心して読んでいられる。しかし、こうなると昔の選評―理屈はどうあれキライなものはキライだ、という、「文士」による選評―が早くも懐かしくなってしまう。現在、その文士の風貌を垣間見せているのは山田詠美先生くらいか。

 作家は、精神分析の対象たることを免れ得ないが、小学生の頃いじめを受けていたという作者が、恐怖というものに惹かれていく過程に興味を持つ。彼女の場合、正確には猟奇というものに惹かれていったらしい。死にながら生きるゾンビに対する愛着が、いじめを受けた痕跡だというのは分かり易すぎるか。この短評は、それこそ作者の恐れるネット上の下品な陰口に過ぎないのかもしれない。しかし私としては、彼女がより偉大な作家になれるように、陰湿ないじめの一端を担う、というほどの悪意を持ちたい。

 彼女が、日本のスティーヴン・キングを目差すとでも言ってくれれば、すっきりするのだが。海の向うのインテリに取っては、キングを読んでいることは恥ずかしいことだ、というようなことは気にせずに。

爪と目  藤野可織

 「二人称」という変型の方に気を取られていると見過ごされそうだが、ブツ切りの短文が続き、―た。―た。という語尾の単調さが気になる。まるで―ニダ、―スミダが続く韓国語を聞かされているみたいダ。
 「あなた」という二人称、これは単に「文学」を偽装するための装置としか思えない。その表面的な分かりにくさ、ほんの少しの異和が、「文学」らしい雰囲気をもたらすように見えて、その実、全てが平文に―通常の人称に還元した表現に―コノテーションの何の変質もなく転換可能である。そして転換の結果、現れてくるものは、何の変哲もない、ただ不定形なだけの人間の「内面」というものだ。世界とつながる接点として眼球に焦点をあてられた、ある愚劣な存在と、爪という接点に焦点をあてられた、同じくある愚劣な存在(といっても幼児だが)が、擬似家族関係という宥和装置をすり抜けて、通り魔事件のように交接する、という話。
 例えば、バリンジャーの「歯と爪」のネタばらしをしたら顰蹙を買うことは間違いなく、「爪と目」のキモの部分を明かすのも、これが娯楽小説だとしたら避けるべきだが、芥川賞を受けたレッキとした純文学らしいので、ネタバレを控える理由はなく、キモであるその結末を明かすが、―
 ある男の後妻に納まりつつも浮気をしている、「あなた」と称される女が、それを憎まれたのかどうか知らないが、男の連れ子(幼稚園児)にのしかかられて、目の中に爪を入れられる。園児は言う、「これでよく見えるようになった ?」―どうです、怖いでしょ、というつもり。しかし、「チャッキー」じゃあるまいし、そんなことがありうるのか。眠りっ端とはいえ、そんな幼稚園児を跳ね飛ばせない、そんな迂闊なオンナがいるのかしら。三島由紀夫「午後の曳航」なら、周到に事前に睡眠薬を飲ませているからいいけれど。
 父の後妻、つまり義母との葛藤を扱う、という意味では「abさんご」に共通するものがあるが、両作を分かつものは何か。それは「私」がイオカステではない、つまり象徴界に参入していないということだ。ヒナも「あなた」も死んだ母親カナも残念ながら全て想像界の住人だった。二人称、という一種の小説の解体は、あたかも言語の象徴機能を奪うために導入されたかのようだ。それどころか正真正銘の他者たる人物を「あなた」と呼ぶことで、むしろ想像力の充填を回避しており、同じ想像界でも鏡像段階のごく初期にとどまっている。小説作法上は不可能な、「あなた」の内面に対する無遠慮な介入も、鏡像段階なのだから致し方なし。
 死んだ母親カナが生前作成していたブログに、彼女がよく行っていた部屋の模様替えの話が出てくる。そのようなたわいもないことをブログに投稿している人は少なくないと思うが、この小説に仮に何か新規さがあるとしても、その新規さはせいぜい日本語の「模様替え」程度のものである。

 柄谷行人は、明治期の文学にある「イロニー的転倒」を見出した。「忘れてはならない大事なもの」に対して、「どうでもよいが忘れられないもの」を優越させるイロニー的転倒、即ち「風景の発見」/「国木田独歩的転倒」である。「忘れてはならない大事なもの」とは、大逆事件終結する日本の自由民権運動を指す。しかし、これは明治期に成立していたパースペクティヴに過ぎない。自由民権運動とは身勝手な薩長に対する土肥の身勝手な(自由な)反抗に過ぎなかったからだ。むしろ現在、日本人が忘れてはいけない大事なものとは、敗戦に伴い、欧米の十字軍病と、中ソの悪逆非道により日本の魂が殺された、というそのことだ。それを忘れて―恰も江藤淳を忘れ去ってしまったがごとく―あるいは全く知ることすらなく、「どうでもよいが忘れられないもの」に身をやつしている。どうでもいいこと−それは現在は、「風景」というよりむしろ、人間の「不定形な内面」そのものなのだ。
 この小説の背景に描かれている父親−「名の知れた企業に勤めている」という設定になっている−こそ、どこかで「忘れてはならない大事なもの」につながっているはずだ。それが彼の空虚さと生きづらさにつながっているのに、この、作中ただ一人、大企業に所属していることで、日本の現実につながっているはずの男は、ただ遠景でコキュとして描かれているだけである。

 こんな小説が芥川賞というノシをつけられて世間に出される。それは、この小説から一定の文学的経験を得ることができますよ、という保証でもなんでもないのに、読者はそう錯覚する。
 誰がこの小説を支持したのか。まだ選評を読んでいないので、山田委員と島田委員が好意的だったということぐらいしか分からない。芥川賞の選考とは、既存の作家たちが、本来は自分たちの世界を破壊しつくす作品を見出す、という本質的に不可能な作業を、それが可能であるかのように装う場である。そして合議制というものが常に不毛な妥協に終わるということを繰り返し示してくれる場でもある。蓮實重彦氏一人の威光で、正当にも芥川賞を受けた「abさんご」はきわめて稀な例外。いっそ、小川国夫や金井美恵子後藤明生村上春樹吉本ばななを無様に取り逃がしてこそ芥川賞である、と言いたくなる。あるいは、太宰治高見順織田作之助中島敦を。島田雅彦も取り逃がしたクチに入るけど、後で選考委員にしてあげたからチャラね。

 恐怖と美。
 作者の文学テーマにまともに向き合うなら、このテーマが残っている。しかし黒田夏子の「虹」を完全な情報遮断下で読んだのとは異なり、読む前にあまりに雑音が入りすぎたせいもあって、そもそもこの小説から恐怖を感じ損ねてしまった。勢いなんらの美も感じられなかったので、そのテーマを評する資格は私にはない。ただ恐怖には「断絶」が不可欠と思われるが、それが欠如しているように思われるのは、先ほど述べた、幼稚な鏡像段階ということと関係している。

大はずれ

 予想は見事に外れました。受賞作「爪と目」は、ニュース解説で聞く限りでは、例の「チョイ悪」小説のような感じ。それに「あなた」という二人称を使っているらしいけれど、この二人称って、欧米語が、あまりにも一人称の縛りが強すぎるので、その縛りから逃れるために使われる便法のようなもので、融通無碍の日本語で、これをやる必要があるのかしら。読む前からゲンナリ