爪と目  藤野可織

 「二人称」という変型の方に気を取られていると見過ごされそうだが、ブツ切りの短文が続き、―た。―た。という語尾の単調さが気になる。まるで―ニダ、―スミダが続く韓国語を聞かされているみたいダ。
 「あなた」という二人称、これは単に「文学」を偽装するための装置としか思えない。その表面的な分かりにくさ、ほんの少しの異和が、「文学」らしい雰囲気をもたらすように見えて、その実、全てが平文に―通常の人称に還元した表現に―コノテーションの何の変質もなく転換可能である。そして転換の結果、現れてくるものは、何の変哲もない、ただ不定形なだけの人間の「内面」というものだ。世界とつながる接点として眼球に焦点をあてられた、ある愚劣な存在と、爪という接点に焦点をあてられた、同じくある愚劣な存在(といっても幼児だが)が、擬似家族関係という宥和装置をすり抜けて、通り魔事件のように交接する、という話。
 例えば、バリンジャーの「歯と爪」のネタばらしをしたら顰蹙を買うことは間違いなく、「爪と目」のキモの部分を明かすのも、これが娯楽小説だとしたら避けるべきだが、芥川賞を受けたレッキとした純文学らしいので、ネタバレを控える理由はなく、キモであるその結末を明かすが、―
 ある男の後妻に納まりつつも浮気をしている、「あなた」と称される女が、それを憎まれたのかどうか知らないが、男の連れ子(幼稚園児)にのしかかられて、目の中に爪を入れられる。園児は言う、「これでよく見えるようになった ?」―どうです、怖いでしょ、というつもり。しかし、「チャッキー」じゃあるまいし、そんなことがありうるのか。眠りっ端とはいえ、そんな幼稚園児を跳ね飛ばせない、そんな迂闊なオンナがいるのかしら。三島由紀夫「午後の曳航」なら、周到に事前に睡眠薬を飲ませているからいいけれど。
 父の後妻、つまり義母との葛藤を扱う、という意味では「abさんご」に共通するものがあるが、両作を分かつものは何か。それは「私」がイオカステではない、つまり象徴界に参入していないということだ。ヒナも「あなた」も死んだ母親カナも残念ながら全て想像界の住人だった。二人称、という一種の小説の解体は、あたかも言語の象徴機能を奪うために導入されたかのようだ。それどころか正真正銘の他者たる人物を「あなた」と呼ぶことで、むしろ想像力の充填を回避しており、同じ想像界でも鏡像段階のごく初期にとどまっている。小説作法上は不可能な、「あなた」の内面に対する無遠慮な介入も、鏡像段階なのだから致し方なし。
 死んだ母親カナが生前作成していたブログに、彼女がよく行っていた部屋の模様替えの話が出てくる。そのようなたわいもないことをブログに投稿している人は少なくないと思うが、この小説に仮に何か新規さがあるとしても、その新規さはせいぜい日本語の「模様替え」程度のものである。

 柄谷行人は、明治期の文学にある「イロニー的転倒」を見出した。「忘れてはならない大事なもの」に対して、「どうでもよいが忘れられないもの」を優越させるイロニー的転倒、即ち「風景の発見」/「国木田独歩的転倒」である。「忘れてはならない大事なもの」とは、大逆事件終結する日本の自由民権運動を指す。しかし、これは明治期に成立していたパースペクティヴに過ぎない。自由民権運動とは身勝手な薩長に対する土肥の身勝手な(自由な)反抗に過ぎなかったからだ。むしろ現在、日本人が忘れてはいけない大事なものとは、敗戦に伴い、欧米の十字軍病と、中ソの悪逆非道により日本の魂が殺された、というそのことだ。それを忘れて―恰も江藤淳を忘れ去ってしまったがごとく―あるいは全く知ることすらなく、「どうでもよいが忘れられないもの」に身をやつしている。どうでもいいこと−それは現在は、「風景」というよりむしろ、人間の「不定形な内面」そのものなのだ。
 この小説の背景に描かれている父親−「名の知れた企業に勤めている」という設定になっている−こそ、どこかで「忘れてはならない大事なもの」につながっているはずだ。それが彼の空虚さと生きづらさにつながっているのに、この、作中ただ一人、大企業に所属していることで、日本の現実につながっているはずの男は、ただ遠景でコキュとして描かれているだけである。

 こんな小説が芥川賞というノシをつけられて世間に出される。それは、この小説から一定の文学的経験を得ることができますよ、という保証でもなんでもないのに、読者はそう錯覚する。
 誰がこの小説を支持したのか。まだ選評を読んでいないので、山田委員と島田委員が好意的だったということぐらいしか分からない。芥川賞の選考とは、既存の作家たちが、本来は自分たちの世界を破壊しつくす作品を見出す、という本質的に不可能な作業を、それが可能であるかのように装う場である。そして合議制というものが常に不毛な妥協に終わるということを繰り返し示してくれる場でもある。蓮實重彦氏一人の威光で、正当にも芥川賞を受けた「abさんご」はきわめて稀な例外。いっそ、小川国夫や金井美恵子後藤明生村上春樹吉本ばななを無様に取り逃がしてこそ芥川賞である、と言いたくなる。あるいは、太宰治高見順織田作之助中島敦を。島田雅彦も取り逃がしたクチに入るけど、後で選考委員にしてあげたからチャラね。

 恐怖と美。
 作者の文学テーマにまともに向き合うなら、このテーマが残っている。しかし黒田夏子の「虹」を完全な情報遮断下で読んだのとは異なり、読む前にあまりに雑音が入りすぎたせいもあって、そもそもこの小説から恐怖を感じ損ねてしまった。勢いなんらの美も感じられなかったので、そのテーマを評する資格は私にはない。ただ恐怖には「断絶」が不可欠と思われるが、それが欠如しているように思われるのは、先ほど述べた、幼稚な鏡像段階ということと関係している。