爪と目  part2

  いとうせいこう「想像ラジオ」には、「安易なヒューマニズム」があるという。それが難点らしい。しかし、むしろ「爪と目」のような小説の「安易なアンチ・ヒューマニズム」こそ、難点なのではないか。読む前にこの小説に抱いていた、どうせ「チョイ悪」小説なのだろうという予見は外れた。「チョイ悪」小説がそうであるように、ラストの見得で「悪」から立ち去るそぶりを見せる、ということはなかったから。―切りの、「あとはだいたい、おなじ。」というのは、限りなくそのそぶりに近いけれど―。
 選評を読んでみることにしよう。
 まず気づかされたのは、私に誤読があったこと。「あなた」に幼児がのしかかるのがおかしい、と言ったが、これは時間をミックスするという手法に錯覚を与えられただけで、のしかかったのは実は「わたし」がもう少し成長してからのことらしい。となると「わたし」が「園児たちの中でも抜きん出て体格のいい」「丸々と太り、ふてぶてしい頬をし」「服いっぱいに、ぎっちりと肉が詰まっている」という設定は、あるいはこの錯覚をもたらすための意識的に持ち込まれたものなのかもしれない。これは、ミステリーで犯人像を撹乱するためにしばしば用いられる手口に近い。
 とにかく、誤読してしまったという狼狽から、私は何か難癖をつけるネタを探し出すのであって、つまり、映画でも何でも、その「十日前」とか、その「四年後」とか時間をシャッフルさせたものに面白い映画があったためしがないとか、言ってみたくなるのだ。つまり時間をストレートなものに直してたどれるストーリーがそもそも面白くなければ、それをいくらシャッフルしても面白くなりようはずがない。映画に関してはそれが結論。しかしこちらは小説である。小説ではどうか。これだけ物語が氾濫している世界で、ストレートな時間下でなされたナラティヴは何らかの定型に回収され、すぐ底が見えてしまう。そこで物語延命の手段として時間シャッフルを用いる。それらの拡散した時間は、読者の現在という時間に集約される過程で、何らかの物語の効用の残存効果を発揮する。
 しかし、肝心なことはこの小説ではそれが、過去が追憶という人間の精神浄化作用としてではなく、未来が希望という人間の敬虔な精神の発露としてではなく、あくまでも現在という時間の上に現れた無機質な想念に過ぎないものとして扱われている、ということだ。追憶したり、希望を抱いたりすることが、人間の人間的な要素であるとしたら、これはやはり、アンチ・ヒューマニズムである。そしてこれらがただ作者の、「怖いもの」「恐怖」への執着から呼び出されているのであれば、それは「安易な」アンチ・ヒューマニズムと呼ぶしかない。
 安易なアンチ・ヒューマニズムの小説。
 ―もしかしたら、現在におけるリアリズムの小説。
 「希望」を希望しようとする営為が、「安易なヒューマニズム」として排されたように、現在では追憶とか希望とかいう精神機能は失墜している。その現在下では、人間の「内面」は不定形足らざるを得ないという洞察に基づく、リアリズムの小説なのでこれはあるのかも知れない。それでも尚、ここに「安易な」という言葉を付け加えなければならないだろう。
 とりあえず、ヒューマニズムであれ、そのアンチであれ、さらにはリアリズムであれ、とにかく「安易」なものは良くない、というところに話を収めておこう。

 「悪」に賭け金が置かれた小説の階梯。

①最後に「悪」から立ち去るそぶりを見せる、偽悪的小説―「チョイ悪」小説。
②安易なアンチ・ヒューマニズム―多くのホラー小説。
③アンチ・ヒューマニズム
④そもそもアンチとして対置すべきヒューマニズムの不在を与件とする非社会的小説(何かの手違いでもなければ、通常は世間に流通しない)
近年、③の秀作として辻原登「冬の旅」がある(この小説はもしかしたら④)。そうすると①でないところはいいとしても、せいぜい②であるに過ぎないものに満足な方はどうぞ、と言うのが妥当なところ。

 さて、選評を読むのであった。
 あまりビビッとくる評はなかった。奥泉委員や堀江委員の参加により、選評は大いに重厚なもの―言い換えれば優等生的なもの―になっており、あまりツッコミどころがない。読んでヒヤヒヤするのは例によって島田委員のそれくらいで、後は安心して読んでいられる。しかし、こうなると昔の選評―理屈はどうあれキライなものはキライだ、という、「文士」による選評―が早くも懐かしくなってしまう。現在、その文士の風貌を垣間見せているのは山田詠美先生くらいか。

 作家は、精神分析の対象たることを免れ得ないが、小学生の頃いじめを受けていたという作者が、恐怖というものに惹かれていく過程に興味を持つ。彼女の場合、正確には猟奇というものに惹かれていったらしい。死にながら生きるゾンビに対する愛着が、いじめを受けた痕跡だというのは分かり易すぎるか。この短評は、それこそ作者の恐れるネット上の下品な陰口に過ぎないのかもしれない。しかし私としては、彼女がより偉大な作家になれるように、陰湿ないじめの一端を担う、というほどの悪意を持ちたい。

 彼女が、日本のスティーヴン・キングを目差すとでも言ってくれれば、すっきりするのだが。海の向うのインテリに取っては、キングを読んでいることは恥ずかしいことだ、というようなことは気にせずに。