道化師の蝶  円城塔

 セマンティックスを解除してシンタックスのみで文章を駆動させること。プラグマティックスはもとより排し尽くされている。それは「受賞の言葉」やスピーチで発揮すれば良い。記憶も頼みにならず、データベースもあてにならず、あるのは盲目のシンタックスの運動だけ。結果として、いわゆる心の琴線に触れる言葉が一つもない小説が仕上がる。読んで何の感銘も受けないこと―これはこの作家のたくらみの成功の証なのだろうか。また、「 アサッテの人」を優に上回る「シアサッテの人」ばかりが出てくる小説、とも言える。そこでは言語を通しての感情移入は不可能である。書く/読むことによって作者/読者の中に堆積しているはずの言語世界をいちいち脱臼させていくだけの試み。
このような「小説」を書く情熱、つまり、生活者の一語で、犯罪者の一語で、パワーエリートの一語で容易に崩れてしまうような、果敢ない言語世界を構築しようとする奇態な情熱はどこから来るのだろうか。
 思うのは三浦俊彦氏のことである。様相論理学者で可能世界を考究する同氏は、1994年からほぼ連続して三回、芥川賞の候補になった。しかし受賞はかなわなかった。最初の候補作のタイトルは「これは餡パンではない」という。円城氏の前回の候補作「これはペンです」とつき合わせると、この両者の関心の所在が近いところにあることが察せられる。しかし、三浦氏の小説は審査員の理解の外だった。今回の円城氏の受賞を思えば三浦氏の登場が早すぎたのだ、ということになる。しかし円城氏も薄氷の受賞だった。それは彼の作に時代が追いつきはしたものの、なおも欠陥を抱えていることを意味する。彼を支持した川上委員の「シュレジンガーの猫」のシロウト談議や、島田委員の「人を虚仮にした」選評を読んでも良くわからないし、高樹委員にいたってはWikiの「メタフィクショ」ンの項に解釈を譲っていたりする(諏訪哲史の「アサッテの人」(2007)がメタフィクションだという指摘を受け、メタフィクションとは世界の構造そのもののことだ、という手厳しい反論があった、そのとき高樹さん、あなたもすでに委員だったはず)。これらの文学のわからない人たちは放っておいて、ここは三浦氏の小説を評した当時の大江委員(政治的立場はともかく、文学というものが良くわかっている !)の選評を写しておこう。

筒井康隆が伐り開いた、言葉の自律性のみが原理の奇想の世界が継承されている。しかしそこに鈍い非文学の文章が随所にまじっている。(候補作「蜜林レース」に関して)
―読むにたえるものになるためには、筒井康隆氏のもっとも良質な通俗性が必要で、むしろそれは篤学な研究者なのらしい三浦氏に無縁なものではないか(候補作「エクリチュール元年」に関して)

 同じく文学がわかっている古井委員の評も引いておこう。
―《無・意・味》をつぎつぎに投げこんでいるところに、私は気迫を感じた。《意味》に捕まるまいと、大わらわである。喰い物を投げ散らしながら悪鬼から逃げる話が思い出された。しかし追いかける鬼の相貌がやや稚く見えた。(候補作「蜜林レース」に関して)

 その表現したいことは、すでに筒井がやってしまったことだ、という評は、渡部直己の三浦評―筒井康隆マイナス多大な怨恨プラス多少の教養イコール三浦俊彦、にも共通しているが、円城氏の作にも、その評は、作品の高踏的なペダンチックな装飾をはぎ落せば、当てはまりそうだ。「逆立ちする二分間に読み切る本」、以下存在しない本のタイトルの羅列はまさしく笑えない筒井康隆、である。本作は最終投票でも半数に達しなかったそうである。それでも受賞してしまう幸運もあれば、過半の支持を得ながら(三作同時当選はなし、という不文律により)落選してしまう不運もある。
 彼の「受賞の言葉」はプラグマティクスというよりセマンティックスに満ち溢れたものであった。いずれ彼にはこのセマンティックスと自分の作品世界とを切り離すことが不可能になるだろう。あくまでもセマンティックス以外に文学の王道はないからだ(とはいえ、この結論に安易に飛びつくと、私小説以外の小説は認めない、ということになり兼ねないが)。
 とにかく、「感動をもらいました」「元気をもらいました」という日本中に溢れる高湿度の言語世界(劣化したセマンティックス)からもっとも遠い渇いた世界ではある。そこでとりあえずは「混迷をありがとう」、「隔絶をありがとう」と謝しておきたい。

第146回
2011年後期
個人的評価 ★

カイ 眼は高いが手は低すぎる、その目の高さ冒険・試みは買わなければならない(宮本輝)
ヤリ 言葉の綾取りのような出来の悪いゲーム/一人よがり(石原慎太郎)