普賢  石川淳

  読んでも読んでも一向に面白くならない。東西に亘る学識の開陳は、活字中毒者には一掬の美酒足りうるかもしれないが、文学としては行くところも帰るところもない偏屈な徘徊老人の繰言のようなものに過ぎない。幼時、漢学者の祖父から漢文の素読を仕込まれたという著者には、一応の敬意を持って接すべきだが、本作などは、雑多な知識を一杯に詰め込んだ受験生が、性欲の叛乱に屈する、という態の、それだけの話のように思える。解脱と悟りの道は常に用意されている。それは何ら新規な発見ではない。にもかかわらず人間は好んで堕地獄の生に陥る。それも何ら新奇なことではない。しかし、時は昭和十一年、日本が徐々に悪意ある世界の鉄輪で喉を締め付けられている時代である。なまじいの孔孟の知識とアナトール・フランスアンドレ・ジイドなどへの傾倒が彼の目を晦ましていたのではないか。

第4回
1936年後期
個人的評価 ☆

カイ 近代小説学を体得し、油断なき熟練によって更に一層この作家のごちゃごちゃした天分を生かしたもの(室生犀星)
ヤリ ひとり喜ぶということから這い出て来てこそ手腕が役立つ(横光利一)