糞尿譚  火野葦平

 糞尿汲み取り業をめぐる政界、業界の駆け引き、謀略と裏切り、というような話なので鎌田慧ルポルタージュでやればいいと思うが、これは小説である。そしてその小説的特性が話を分りにくくする方向に作用しているだけのように思える。全く地方政界ではかくもあろうという話なのだが、最後に糞尿を撒き散らそうが何しようが、現実の問題を小説で擬似的に解決するときに用いられる形式的な見栄のきり方の踏襲に過ぎない。ルポルタージュにはこの便利な手法は許されていない。どちらが文学的か。

第6回
1937年 後期
個人的評価 ★

カイ この作品に於ける作者の心の置きどころの丁度よさ加減が、得も云えぬ魅力の発光体となっている(小島政二郎)

ヤリ 行文が未だお話の程度で創作の域に至らない憾(滝井孝作)

 前回の受賞者が尾崎一雄という「苦節十年」組だったため、今回は並居る候補者を抑えて火野という新人の受賞となったらしい。こういう人事上の配慮が芥川賞の初期には(あるいは現在でも)つきまとっていた。小林秀雄が火野の従軍地杭州に赴き、芥川賞の陣中授与式を行った。これが菊池寛曰く「興行価値百パーセント」の劇的効果を生み、「麦と兵隊」以降の〈兵隊三部作〉の爆発的人気をもたらすこととなった。「麦と兵隊」は小林秀雄も激賞したが、小林の眼光は軍の検閲により二十七ヵ所も訂正削除されたというその部分(主に捕虜の虐殺に触れた箇所)に達していたのかどうか。
 火野は受賞が縁で報道部に勤務、終戦時も同部にいたが、報道統制がその職務内容だった。「アクマデモ国体ヲ護持シ」「共産主義的社会革命的言論ハ徹底的ニ取締ル」という統制である。戦後はそれがために戦争協力者として公職追放となる。追放は二年ほどで解除され、その後流行作家となったが、1960年、睡眠薬自殺。享年53。自殺の原因は不明とされるが、2011年8月に発見された終戦前後の火野のメモにある、「この数日のこと、筆とる心にもならず。(中略)歯噛みて唇をやぶるといへども、胸ぬちの怒りと悲しみとは去らず。ああ、力足らず、誠足らずして、(中略)罪、死に値す。」 という悲痛が伏流として火野の心中にあったであろう事は想像に難くなく、小説家として名声を得ても、いや名声を得れば得るほど、その悲痛は増大して行ったに違いない。