ダイヤモンドダスト  南木佳士

 難民医療チームの医者としてタイ・カンボジア国境に赴いたり、後年医師でありながらパニック障害鬱病になってしまった南木氏はもしかしたら愛すべき人なのかもしれない。それどころか尊敬すべき人であるのかも。いずれにしても著者と何か面識の機会でもあれば彼に好意を抱き、その好意が作品評にも影響していただろう。しかし今のところ私の眼前にあるのは彼の作品、テキストだけである。そのテキストに対する評が呵責のないものであっても別に他意はない。
 そのしゃれたタイトルには反して、純日本的地方的人間関係小説である。ベトナム戦争を経験したアメリカ人宣教師が登場するが、小説は一歩も日本を出ない。宣教師が連発する冗談はアメリカン・ユーモアとはほど遠い日本的な寒い冗談である。例えば伊藤 計劃の小説の西洋人描写には西洋人の思考の枠組みにちゃんと入っているという感触がある(あるいは日本人と西洋人の内面的差異の消失か)が、この小説を読めば1980年代には日本人が西洋人というものをまだ真に対象化できていなかったことがわかる。現時点でそういう小説を読むこと自体すでに苦しい作業で、同じサナトリウム小説たる「魔の山」を日本人は本当に読解できているのか、ということすら心許なくなってくる。
 さらに細部を言えば、宣教師が話す戦争中の見神体験に、「とてもいい話ですね」と感心したりするが、自分の創作であろう話を作中で褒めてどうするのだろう。また主人公はしきりに女性の胸や尻に幻惑されるようだが、そこに表現がないので読んでいてもそれが性的衝迫として伝わってこない。例えばショーロホフの女の踵の描写などを参考にすべきである。
 予測どおり最後に親父が死に、予測どおり最後に(予測した以上に唐突に)ダイヤモンドダストが出てくる。しかしこれなら仮にダイヤモンドダストを詠んだ俳句が一句でもあればそちらのほうが多分文学的であるだろうと思わせるような出来である。駄作小説とか言うようがない。「阿弥陀堂便り」もそうなのだろうけれど、生と死の問題をソフトに扱えば、それだけで気に入られてしまうのか。文庫本の巻末には加賀乙彦との対談がついていたがそれすら読む気になれなかった。いつもであれば出来の悪い創作に触れてしまった後はそういう現実の人間の実際的な言葉を口直しのように読んでしまうのだけれど。

第100回
1988年後期
個人的観想★★

カイ  この作家の美質の、寒冷に冴えた感性が作中にゆるやかに行き渡り、神経の軋みがようやくおさまったという境地か(古井由吉)
ヤリ  最後の、ある朝、水車が停まりまた人が死んだ、という感動の仕舞いは、どんなものか(古井由吉)