アカシアの大連  清岡卓行

 その社会的影響力から錯覚しそうだが、芥川賞は新人発掘のための賞であって、文学の最先端を指し示すための賞ではない。いくら芥川賞だからって、文学史の先端にばかりいる必要はないし、仮にそうしたくともできないでいるという現実もある。しかし、このような抒情的なだけの文章が受賞すると、そこに文学史的な空白の出現を感じさせられるのは確かだ。そのような空白に対して、さかしらに自分の観想を述べ連ねても詮無い気がする。
 同じ一つの散文に対して、真向対立する評価があることに、いまさらのごとく驚く。PRO―青春の感傷と煩悶が美しく描かれている―、CON―大方が甘い詠嘆と感傷だけ―。しかし一つの力の場で人間が人間を評価し、前者のわずかばかりの優勢が、芥川賞受賞という決定的な事実を形成していく。
 後半、断片的な挿話が羅列されるのは、小説の構成としてどうか。

第62回
1969年後期
個人的観想★

カイ  青春の感傷と憂悶がこれほど美しく描き出された作品は、そうたくさんはない。まさに芥川賞に新風が吹き通った感じ(井上靖)
ヤリ  新風がない。小説的な野心もない思い出を語りつづけている(丹羽文雄)

 小説の他に詩作をよくした人物は芥川賞受賞の中にざっと九名ほどいる。この中で「詩」関連の文学賞を受賞した、文字通り自他共に認める「詩人」は以下の五人である。清岡卓行三木卓吉行理恵松浦寿輝町田康。八十四歳の長命を誇った清岡の受賞暦が一番華やかで、七十七歳で存命中の三木卓がこれに次ぐ。両名とも受勲している。吉行理恵は残念ながら六十七歳と受勲には若すぎる齢で没してしまった。次のホープは間違いなく松浦寿輝で多分清岡の記録をやすやすと塗り替えてしまうに違いない。一方の町田康、彼ほど勲章や藝術院賞などが似合わない作家は希少だと思うが、なんとなく図太く長生きしそうな人なのでどうなることやら。この中でその小説を読んだあと、その詩まで読みたいという気にさせたのは町田だけである。