尋ね人の時間  新井満

  「現代人の心の空洞を描く、自分探しの物語」だって ? これがこの小説の文庫本につけられたキャッチコピーだ。読む前から日本人の根っからの呑気さが身にしみてくる思いがする。
 一読、村上春樹風のハイカラな小説という印象。村上が芥川賞の候補になったのは1979年だからほぼ10年近くも前のことになる。村上はあまりに早く登場しすぎたのかも知れない。あるいは1975年頃デビューしていた片岡義男村上春樹との類似/相異が詮衡委員にとって難問だったということか。その後委員も当然変わり、概ね「第三の新人」は吉行淳之介を除き退場していた。村上の落選がめぐり合わせというものなら新井の受賞もめぐり合わせというものである。このとき新井はすでに42歳、春樹は候補時30歳だから、後に村上が歳の割に甘い物語を書いてなどと非難されるいわれもないようなものだ。
 読み進めるにつれ、春樹風という印象は後退、やはり四十男の小説らしくなる。なぜか女性に好かれる男がなぜか不能、というだけの話。これを現代人の心の空洞とされてはたまらないが、やはりここまでドタ臭くしないと、賞は上げられませんということなのか。「私を抱いて接吻してくれますか」などと言う、男性の願望を投影しているだけの女が出てくるので、選者たる河野多恵子が怒るだろうと思ったが、この予測は外れ、河野は怒るのを通り越してこれを無視していた(河野の評は候補作全体に対する評である)。この回、吉本ばななが候補になっていたが、彼女を差し置いてこのシンガーソングライターが受賞してしまった。

第99回
1988年 前期
個人的評価★★

カイ  男の女に対する夢と、抽象性に支えられた風俗性が、「この世のもののなつかしさ」というふうに思えて来た(大江健三郎)
ヤリ  矛盾・不自然歓迎だが、矛盾どまり、不自然どまりの単なるでたらめに対しては、頑固なリアリズム文学の信奉者のように拒絶する(河野多恵子)

 電通社員だった新井は小説家と言うより「千の風になって」の訳詩家・作曲家として、最近では陸前高田の一本松を歌った「希望の木」の詩人としてのほうが著名なのかも知れない。この辺は文学者の活動というより電通的センスの発露と言ったほうがいいだろう。「千の風」については剽窃疑惑が持ち上がり物議をかもした。その興味深い経緯はネットで知ることができる。この歌は秋川雅史が紅白で歌うことにより広く知られたが、その後福山雅治がコンサートで「9.11」の画像を見せながら歌うという使われ方がされている。今度の「3.11」では新井が被災地で朗読会を開き、「希望の木」を朗読すると共に「千の風」も歌ったらしい。それで義捐金の足しにもなり、被災地の人が喜んでいるのでいいようなものだが、「千の風」という「企画」を横取りされた人は苦虫を噛み潰すだろう。そもそも今なお三千人近くの死者の遺体が未回収であるとき、私であれば黙祷をささげるのがせいぜいで、とても三千の風が吹いているなどと歌う気にはなれない。それはあまりに手軽な死の回収である。小説の方では見かねて渡部直己が1991年時評「電通文学にまみれて」の連載を開始した。その後も「電通文学」が猖獗しているのは渡部の責ではないが、戦後の意味空間を形成してきた電通を文学だけではなく社会学的に分析する仕事がいま必要な気がする。成田豊率いる電通が仕掛けた「韓流ブーム」で偽の韓国王朝史が吹き込まれる前に。もっともわがNHK大河ドラマなどを見るまでもなく、単なるドラマの美的脚色が偽史になってしまうということは普遍的に見られることなので、あまり大きなことは言えない。