無明長夜  吉田知子

 三島由紀夫及び舟橋聖一の見立ては「分裂病」の症状記録ということらしいが、私はこれを「鬱病」患者の手記と読んだ。心の中にある瘡蓋を引っかいているような自虐的文章が延々と続く。分裂病改め統合失調症患者になる文章には、ときおり痛切で美しいひらめきが見られるが、ここにはそのようなものはなく、あるのは負の想像力というものだけである。確かに鬱病であれば小説など書く気力もなくしてしまうかもしれないが、最近はあまり言わないが鬱病は躁病とのセットで、躁の状態で一気に書いたという解釈も成り立たないわけではない。作中には癲癇の少女も出てくるし、次回の古井由吉の「杳子」と合わせ、木村敏言うところの、アンテ・フェストゥム、イントラ・フェストゥム、ポスト・フェストウムの精神病三類型が揃ったと喜んだが、分裂病者にとって全く意味のない過去にこだわり、差異ではなく同一性に囚われているというのが躁鬱病の特徴であると木村敏はしている。この特徴は本作の全編を蔽っていると思う。作者は自分のその器質を利して一度地獄の底というものに沈んで見せたかったのだろう。

第63回
1970年前期
個人的評価★

カイ 狂気が次第に深まって行く世界を、仏教的な暗い妖しい雰囲気の中に捉えた作品と言っていいであろうか(井上靖)
ヤリ 精神分裂者の幻想小説というものは素人にも書き易いものである(船橋聖一)

 この年の暮、自決した三島由紀夫の評を転記して置こう。今回の詮衡が三島の委員としての最後の仕事である。時の総理大臣に三島は「キチガイ」扱いされたが、「キチガイ」が「キチガイ」をこうも冷静に分析できる筈がない。総理大臣こそ「非核三原則」という「自閉症」的施策を掲げてノーベル平和賞をありがたく貰ったりしたが、一方で有事の際の核持込を密約していたなど、「統合失調症」の疑いありとされても文句はいえないのに。

 三島評/実存的な作品で、すばらしい断片の集積であり、現実感覚の剥落感が精密周到に組み立てられ、(中略)文章もたしかで、詩が横溢している。しかし、できれば、断片の集積で終ってほしかった。さわりの本山の出火や回想の炸裂は、いかにもドラマチックな盛上げになっていて感心しない。