スティル・ライフ  池澤夏樹

 スティル・ライフ。この高踏的生活は、主人公佐々井が手を染める株取引という世界の平明さに支えられている。しかし、彼がリーマン・ショックに遭遇しないのはただの僥倖である。もしそのような事態に襲われたら、取り澄ました彼の世界はそのときあっけなく崩壊してしまうだろう。それはこの小説の外部にある、無視できない絶対的条件である。
 ともあれ、背表紙にある、―科学と文学の新しい親和。清澄で緊張に満ちた抒情性―という言葉は気に入ったので、そういうことにしておこう。本当は他の来るべき傑作のためにとっておきたい言葉である。―しなやかな感性と端正な成熟が生み出した、世界に誇りうる美しい青春小説の誕生―。これもそうしておいても良いが、世界に受け入れられているのは今のところ、村上春樹吉本ばななである。しかし、こういう作品が文学として供給される社会では、アメリカ(を操る金融資本)やロシアや朝鮮、とりわけ中国共産党の蹂躙に抵抗しうる耐性を持つ人間は育たない。作者は「スティル・ライフ」を抱きかかえてダライ・ラマよろしくさっさと亡命するのでいいのだろうが。
 「やさしさ」の中で自足する日本の文学がやがて亡国の文学となることを恐れる。世界の「悪意」と対峙することができる、体力ある文学の出現を待ち望んでいるのは、ひとり私だけではないと思うが。

第98回
1987年後期
個人的評価★

カイ 雨崎の海辺で雪に降られる場面や神社の境内で鳩を見る場面の、新鮮な美しさと説得力には感心させられた(三浦哲郎)
ヤリ 時折、理窟や説明に縋る(河野多恵子)

 たまたま、「中国共産党 野望と謀略の九十年」 を併読していたので、このような評に。苛刻というのも愚かな歴史的事実の前には須賀敦子が本作に寄せた賛辞も吹き飛んでしまう。