高木卓  芥川賞辞退

 第11回(1940年前期)は、高木卓が受賞を辞退したため、受賞作なしとなった。芥川賞の受賞辞退はあとにも先にもこれ一回きり。直木賞を辞退した山本周五郎と合わせて、特筆すべきことである。この回には、木山捷平、野口富士男、田宮虎彦織田作之助、坪井栄等の錚々たるメンバーを含め予選候補も入れると30名超が候補者となっていた。その中から折角選出されたのに辞退するとはもったいないことである。菊池寛も「審査の正不正、適不適は審査員の責任であり、受賞者が負うべきものではない。活字にして発表した以上、貶誉は他人にまかすべきで、褒められて困るようなら、初めから発表しない方がいいと思う」と怒っている。その怒りは、メンツを潰されたからと一般に思われているが、永井龍男は、恥をかかされたというより営業妨害されたという怒りが本音だろう、と冷静に書いている。もともと「ニッパチ」対策として作られた賞だが、受賞作掲載号は発売数も増大する、その機会を潰された怒りだというのである。ありそうな話だ。通常はわざわざ候補にされて落されるという恥をかかされるのは作家の方だから、辞退の理由によってはこれは快挙と言えば快挙と言える。選評を見ると、候補作「歌と門の盾」を推奨しているのはほとんど菊池一人で、他の評家は全て否定的だった。佐藤春夫などは、高木卓の辞退は「氏の自ら知る明」とまで言っている。山本周五郎の場合は菊池への反感が理由らしいが、彼は賞は全て辞退するとして筋を通した。高木の辞退理由の真相が次の第12回の受賞者櫻田常久の「感想」で明らかになった。高木と櫻田は同人誌の仲間であり、高木は櫻田の並木宋之介名義で書いた「薤露の章が」同じ回の候補になっていると思いこんでいた。そして自分が辞退すれば、先輩である櫻田に賞が行くと考えたものらしい。ところが「薤露の章」は予選候補にとどまり最終候補作には残っていなかったのである。どうしてこんなことになってしまったのか、 櫻田は首尾よく受賞できたからいいようなものの、高木は賞と無縁に終わるのだから、これは悲劇的な誤認だった。
高木卓は本名安藤熙、日本に始めて洋楽を紹介したヴァイオリニスト安藤幸の息子、つまり幸田露伴の甥である。独文学者、音楽評論家として活躍。作家としては大成しなかったが本は沢山書き、ケストナー飛ぶ教室」の翻訳などもしている。

 賞の辞退と言えばどうしても触れなければならないのが大江健三郎文化勲章辞退である。同じ辞退者の大岡昇平は「捕虜になった人間」として国の勲章は受けられないと辞退したものだが、大江の場合は「民主主義者」という名目の許に日本国の勲章を拒否した。一方でノーベル賞はスェーデンの市民から貰うものだからかまわない、という強弁を立てて受け取った。市民が1億円も拠出するか。スェーデンはそもそも王国であるし、ノーベル文学賞の選考を行う、スェーデン・アカデミーはグスタフ三世というれっきとした王様が設立したものである。資金はもちろん「死の商人」、アルフレッド・ノーベルの遺産である。国家を否定するもよし、しかしそうであるなら大江はサルトルパステルナーク同様にノーベル賞も辞退すべきだったのではないか。