終の住処  磯崎憲一郎

  これが、日本の企業戦士のかつての夢と失意を描く寓意小説だとしたら、もう少し短いほうが良い。いくつかの超常的な出来事と不思議な建築家と抗生物質の話を絡ませた、ボルヘス風の(ペダンチックな)短編にあるいは仕上がっていたかも知れない。私小説的メモリアルとして書いたのなら、もう少し細部に具体的な手触りがあっても良い。具体性の薄い、無機質な妻や娘、そしてただの「女」としてあらわれる様々な浮気相手の描写は寓意小説のそれのようだし、終結で少し昂揚する被雇用企業人の感情は私小説のそれのようでもある。そもそも「寓意小説」やら「私小説」やらという既成の小説の枠組みをはみ出している小説なのだろうか。しかしそれが斬新なものとは少しも思えず、ただの身勝手すぎる独白を書き連ねたものとしか思えない。とにかく「女にもててもてて困った」という話を許容できる(小谷野敦なら許せないだろう)読者、か細い心理のゆらぎを愛でる読者には好まれる小説なのかも知れないが、今時そのような小説が読まれること自体が、不思議で仕方がない。
 ここにあるのは、全編、男の身勝手な幻想だけである。この小説の主人公のような男は、定年離婚されても不思議ではない。妻の方に甲斐性というものがあれば。あるいは夫と同じ程度の身勝手さがあれば。この男の束縛の地でもあり、安息の地でもある「終の住処」というのは、幻想からなるこの小説の幻想の最たるものである。多くの夫婦は、互いに目をつぶりながら結局生涯を共にするものであり、宿命を受け入れるようにそれを受け入れなければならない―ということを小説に書く。作家はそれでよい、彼には女性との浮気や仕事での達成感という甘美な記憶もあるだろうから。しかし書かれたほう、妻や娘はどうなのか。作家は内面の独白の言葉を持つが、妻や娘は持たない。妻や娘だけではない。作者にとって他者とは内面を持たないもの、あるいは内面を知りえないもの、さらに言えばその内面など全く重要でないもの、なのだ。主人公の取引先の男が語る内面は見当違いの話のように受け取られ、彼はその男を当然のように仕事の上で倒してしまうのである。まるで自分以外の人間が内面を持つことは許さない、とでもいうかのように。
 これは、妻と子のために一生懸命会社で働いたのに結局嫌われて捨てられて、というような自虐小説の対偶にある、保坂和志的人生肯定小説なのか。著者本人にはあるいは責任はないかも知れないが、このような小説を書いて、上機嫌な顔でインタビューを受けている、その顔はこの小説にはひどくそぐわない。ル・クレジオのような苦渋に満ちた顔であったなら、すこしはこの小説を信用したかも知れないが。

第141回
2009年 前期
個人的評価 ★★

カイ 小説には文法がある。敢えてそれを変えてみると、うまくいけばおもしろい結果が得られる。その好例である。(池澤夏樹)
ヤリ 観念というよりも屁理屈に近い主人公の思考はまことに得手勝手で、鼻もちならないペダンチストここにあり、といった反発すら感じた(宮本輝)

 著者は現役の商社マンだが、もし自分の上司がこんな小説を書いたら、私は一辺でその上司への信頼を捨てる。同僚だったら付き合いを敬遠する。私の部下だったら重要な案件から外す。しかしご心配なく、三井物産は度量が広く彼の受賞は快挙とされて社長から直々に祝福を受けたらしいのである。中上健次が健在なりせば、このいい気な男を殴ってくれたのにな。