長江デルタ  多田裕計

 昭和16年日中戦争は泥沼に入り、この暮には太平洋戦争に突入していく年である。この回から昭和19年まで芥川賞の受賞作はいわゆる「時局物」および「時局物」との抱き合わせになる。
 舞台は国際租界地上海。抗日派と親日派がそれぞれの新聞社を抱えて対立し続ける。抗日派を煽りつける欧米勢力。重慶蒋介石。前年、南京国民政府を樹立した汪精衛(汪兆銘)。その汪精衛のもとで親日・東亜新秩序形成に組する人たちの活動が描かれている。それは中国にとって可能だったオプションの一つであり、その意味でこれは貴重な小説である。あるいは中国の赤化の悲劇を防ぎえた人たちだったのに、その後売国奴・漢奸の汚名を着せられて歴史に沈潜してしまった人たち。「傀儡政権」という言葉で切り捨てられているだけのこの汪精衛政権の物語には、東洋というもののもっとも澄み切った象徴の次元で一瞬実現した、日本と中国との宥和の瞬間というものすら感得することができる。
 この回の選評は座談会形式で行われたが、選者の発言には、時局ものが中心にならざるを得ないことへの苦々しさが感じられるだけで、この日中宥和の貴重さはことさら取り上げられていない。小島政二郎などは「昭和16年でなければ全然問題にならんよ」と切り捨てている。欧米との開戦が目前に迫る重苦しい心持のなかで、選者たちがなおも文学を営み、文学を顕彰し、文学的精神の高さに活路を求めようとしていたのであれば、その文学的精神とは一体何のことなのか。

 中国の雄大なまた雑駁な風景の描写は秀逸である。

第13回
1941年前期
個人的評価 ☆☆

カイ 支那の青年なんかに読ませれば、日支の提携というような点で実に貢献する所があるだろうと思う(横光利一)
ヤリ 文学的精神は高くないね。高くないというより、僕は低いと思うナ(宇野浩二)