乳と卵  川上未映子

 見田宗介の著名な時代区分に言う、「夢の時代」が「虚構の時代」に切り替わる70年代半ばの頃の昔、二人の作家が現れた。「限りなく透明に近いブルー」(1976)の村上龍と「風の歌を聞け」(1979)の村上春樹。この二人作家の文業には勢い、「夢の時代」の終焉を跡づける側面があった。女性というものにまとわりついていた夢想も引き剥がされた。陳腐な比喩で恐縮だが、村上龍は荒れ狂う北風のように女性から夢想という外套を吹き飛ばし、村上春樹は暖かい太陽のようにその外套を女性自らに脱がせた。その後に何が残ったのか。「虚構」の女性と「生身」の女性とへの分裂である。この分裂の女性作家への影響はようやく、90年代に小川洋子多和田葉子に現れ、2000年代になるとあからさまに金原ひとみ川上未映子などに現れる。生身の女性とは排卵し哺乳をする女体である。本作の感触は「横漏れしません」という生理用品のCMでも聞かされている感覚に類似する。山本夏彦のように「理想の時代」の人なら「それではいままではヨコモレしていたのか」と怒るところである。斉藤美奈子女史が喝破した如く、「妊娠小説」(正確には「受胎告知小説」)が男流文学だとする、その同じ水準で、女流文学を「生理小説」と呼んでもいいのではないだろうか。また女性の「虚構化」の負の側面は、つまり女に付きまとうのはもうクズのような男しかいないということであり、この現状に対する女の側からの反抗の文学とも読めるのだ。

 最後、緑子の悲しみが奔逸し、玉子まみれになる哀切さへの盛り上げ方がうまく、結構技巧的にも巧みな小説である。

第138回
2007年 後期
個人的評価 ☆☆☆

カイ 仕掛けとたくらみに満ちたよい小説(池澤夏樹))
ヤリ この作品を評価しなかったということで私が将来慙愧することは恐らくあり得まい(石原慎太郎)