八月の路上に捨てる  伊藤たかみ

  何も起こらない小説、という私が最も苦手とする小説。小説の中では何かが起きているのかもしれない。しかし肝腎の読者たる私の心のなかで何ごとも起こらない。こういう小説をどう読めばいいのだろうか。丸々ヤマなし、オチなし、イミなしというこの小説は、何らかの文学的意図を有する抑制の結果なのだろうか。それとも単に作者に才能が無いだけなのだろうか。後者であることは考えにくい。単なる無才の文章が人から評価されるということ自体考えられない。それが評価されるとすれば、詮衡委員そのものが全員無才で、自分達の劣化コピーを嘉しとするメカニズムが働いている場合だけだろう。もともと既成の作家の合意、あるいは妥協、あるいはゴリ押しから生まれる文学賞と、真の偉大な作品の萌芽とが結びつくのが難しいことは、この賞とは無縁の作家たちの作品の質を見れば分る。しかし、今は仮に、この小説のつまらなさが何らかの文学的意図に基づくものである、と考えてみよう。
 文學界連載中の陣野俊史「文学へのロングパス」は興味深い評論である。そこでは、ゴールを目指してボールが蹴られない小説、永遠にパス回しが続くだけの小説が語られている。まさしくこの小説も、ゴール・シュートがない小説なのだ。私の心のなかで何ごとも起こらない、というとき、私が期待していたのはこのゴール・シュートだったわけだ。シュートでなくとも、鮮やかなスルーパスをこそ見てみたい。敵に押し込まれてやむなく放つバックパスではなく。「八月の路上に捨てる」、この標題からしてmeticulousなことしか書きませんよ、という著者の意図が汲み取れるが、しかし同時にそれはロマン主義の尻尾がついている、中途半端な標題でもある。陣野氏のいうところの、戦術が放棄された小説、「盛り上がり」が拒否された小説、というものに本作も該当する。確かに戦術を放棄するという戦術もありうる、しかし、と陣野氏は言う、それは小説的聡明さが不用ということではない、と。
 シュートを打たない、というとき、作家は何を抑制しているのか。
 そこには、ワールド・カップのあとにわかにサッカーファンとなった、スポーツ・ナショナリストのような存在への生理的嫌悪も確かにある。日本人的要素で言えば、いまここで、俺が決めたら悪いな、というような遠慮もあれば、失敗したら恥ずかしいというような見栄もある。
 しかし、抑制されたものはもちろんそういうことではない。高橋源一郎の「大人には分らない日本文学史」は、蒙を開かれた面白い評論で、何も起こらない小説への私の苦手意識を緩和してくれた評論だ。そこでは現代の文学は、「私」が「私」を打ちのめそうとする世界と戦ってきた戦争がすでに終わった後の、敗戦後の文学であるという観点が示される。そこでは「武器としての言葉」は放棄される。
 「この百年の間に流通してきたさまざまな問いと答え、あたかも本質的であるかのようにみえる、問いと答えのペア、諍いや闘争、そういったものに対する、深い生理的嫌悪」
 「分りやすいと思われている口語が、実は極めて微妙で曖昧でわかりにくいという事実を、書き言葉である小説は隠蔽してきたのではないか」
 「罠のように、自分に無理やり言葉を発させようとするあらゆる試みから逃れること」
 若干、現代の文学の本質を示していると思われる部分を引用した(一部改編)。
 シュートを打たないという抵抗が批評であるような時代にまだ我々はいるのだろうか。それとも、そろそろ更なる批評としての、天分豊かな選手のプレイが待たれているのだろうか。
 サッカーの比喩を離れれば、一方で蹴鞠のような小説もあっていいのかも知れない。そこではパスだけがゲームを構成している。古井由吉の小説などはこの蹴鞠を思わせる小説で、読者としてはその蹴鞠の色鮮やかな文様を鑑賞することが出来る。その文様くらいは見せてくれ、というのは読者としての最低限の要求ではないか。

第135回
2006年 前期
個人的評価 ★★★

カイ 簡潔な文章からさまざまに迸る人間の妙味の豊かさ(河野多恵子)
ヤリ 
   多くの働く人々が見るもの、感じるもの、味わうもの。それらを超えた何かが小説の芯として確かに沈んでいなければ、その小説になにほどの意味があるのか(宮本輝)