纏足(チャンズウ)の頃  石塚喜久三

 中国人および蒙古人が東北弁を喋る不思議な小説。中国の田舎の話だからそれもありかも知れないけれど、旺盛な生命力を有する中国人にはいっそ広島弁か河内弁でも喋らせたいところだ。父が蒙古人、母が中国人。娘のためを思い、半ば廃れかけている風習の纏足を娘に施す。地主は暴力団(紅幇)を使って収穫の八割を百姓からむしりとる。こういう悲惨な中国の現実を知らされると、その中国に燎原の火の如く共産主義が浸透していったのも呑みこめる気がする。一方、中国の蒙古迫害のありさまも説明される。中国人の食い詰め組みが狡猾に蒙古人の周辺に住み着いてしまう。現代の中国人の不法入国を想起させる話だ。ともあれこのような現状に対し絶望的に立ち上がる男女の姿を描いて小説は終る。そのようにしか終わりえない「小説」であるが、このいわば定型的な結末が、いったい誰に希望を与ええたことやら。
 そのようには終わらせえない現実の情勢のなかで、亜細亜の解放が大東亜戦争大義たりえたのも無理からぬことである。しかしそれは西欧の侵食への対抗ということだけではない。西欧の侵食がなくとも、その侵食を待つ前に中国の地は解放されるべき圧政に覆われていた。この中国の内政問題には日本軍は何もなしえなかったろう。仮に紅幇を追放しえたとしても、自らが少しだけ洗練された新たな暴力団となり、暴政を振るうだけに終わっていただろうことは、明らかである。

第17回
1943年 前期
個人的評価 ★

カイ すこし荒削の感じだが、筆に情熱と昂奮があった(瀧井孝作)
ヤリ 筆がいかにも辿々しく作家と見るには心細い(佐々木茂索)

この地主の手口は、共産国になった今では役人に踏襲されていて、かの国では役人が暴力団と手を組んで私利のために地上げをしているそうである。日本軍が暴政を振るうだけ、というのはたとえば日清・日露戦争の頃なら違っていただろう。当時日本軍はまぎれもなく彼我の市民から尊崇を受ける「皇軍」であった。しかし日中戦争の頃はどうか。「日本軍は決して皇軍ではなかった」という従軍者の暗い告白が、平成の私の耳にも届くくらい、それは近い時代の戦争だった。電撃のごとく勝利を収めた日清・日露とは異なり、日中戦争中国共産党の思惑通り、泥沼化して行く。その中では、水は低きに流れるで、さしもの皇軍もモラルが中国人並みに低下していったのは避けがたいことであったろう。(2013.5.2付)