沖で待つ  絲山秋子

 信じられないくらいの低質の作品。才能のない人が「ですます調」でやると、本当に小学生の作文なみになるというのが良くわかる。具体的なモノとの接点を要求する以前のレベルの作品だが、この作品の具体性は、登場人物たちの販売品目の一つである便器の、例えばBBT-14802Cというような記号である。読者もナめられたものだ。最初から最後までstaleなだけの文章。しょうがないから最後に幽霊でも出すしかないのか。下読みが真っ先に落すべき作品だろ、こんなものは。―

 というのが初読の時のメモ。いくらなんでもこれでは短評にもならないので、もう一度読んでみることにした。幸い、ごく短い短編であるし、詮衡委員の幾人かがこの作に「文学」を見出したという事実は、私がこの小説を読み損ねているということを意味しているであろうから、再度無心に読み直すくらいの謙虚さが必要だと考えた。
 初読は、ブックオフで買った百五円の文庫本だが、今は手元にない。大概の本に対する所蔵欲を断ち切れない自分が、腹だたしさのあまり読後すぐブックオフに売り戻すという例外的な扱いをした本なのだ。でも「芥川賞全集」で読めば良いと思い図書館に行ったが、蔵書中の最終巻らしい第十九巻は第百二十五回までの収録だった。長嶋有以降はまだ当該全集には入っていないらしい。じゃあ単行本で、ということになるが、探せば多分それはあったのだろうが、館内でそれを読む勇気も、カウンターに持っていってそれを借り出す元気もない。次善の策はブックオフに行って再度百五円の文庫を買うことである。ところがどういうわけか、(今日に限って、と私は思ったが)その本がないのである。横光利一の「上海」の講談社文藝文庫版の美本が百五円で売られていたにもかかわらず。その本は通常価格本の棚にはあった。しかも二冊あった。価格は三百円。結局、私は痛恨の思いでその本を買ったのでありました。 (―おや、この辺の世知辛いようで、ある意味切実であるような低俗な人間の心の機微は、確かに絲山秋子なら、もっと辛辣にもっと巧みに書くのかも知れないな)。

 ―再読後の感想は、初読時とほぼ同じ。ただ、最後に幽霊でも出すしかない、というのは間違いで、幽霊は最初から出ていた。それから下読みが落すべき、だというのは、作者はすでにこれまでに三回も芥川賞候補になっているし、第一、文學界新人賞だし、川端康成文学賞芸術選奨新人賞まで取っている。直木賞候補にもなっている(「逃亡くそたわけ」というタイトルのこの小説が世に出るのを「輝ちゃん」に体を張って阻止して欲しかったが、直木賞の方の候補とあっては致し方ない)。これでは、下読みはスルーされるだけで、落したくとも落せなかっただろう。何度も候補になった作家が、落選した作よりもつまらない作で受賞するというのもままあることだが、それとも、これだけの華々しい賞歴を誇る作家を芥川賞で取り逃がしたくなかった、という思惑でもあったのだろうか。
 一番納得がいかなかったのは、この作の評価ポイントである、「職業の織り込まれ方の見事さ」(河野多恵子)、「何年も実社会でもまれた人しか持ち得ない目」(宮本輝)、「仕事の現場感覚」(黒井千次)、などという「職場の生き生きとした記述」(池澤夏樹)である。選者のこれらの評言は、私の感想とは真向から対立している。私は、初読時も再読後も、確かに長時間労働はしているらしいが、情熱も何もないようなこんなつまらない仕事への取り組み方ってあるのかね、という感想を抱いただけだった。詮衡委員の先生方は、あるいは会社づとめという経験をお持ちではないのかしらん、と疑ったが、そうでもないらしい。黒井氏は、長いこと会社づとめをしていて、サラリーマンの代弁者のようなスタンスにいる人でもある。ますます首をひねってしまう。
 出血サービスのつもりで、文庫本所収の「勤労感謝の日」も読んでみた。これは三回前の第百三十一回の候補作。なんと、これが面白いのである。「ですます調」でもないし、「沖で待つ」のStaleさとは異なり、ほとんど 会話文で構成されているこの小説の、その会話に才気が感じられた。受賞の感想を問われて、「芥川賞は足の裏に付いたご飯粒みたいなもの」(そのココロは、「とれないと気持ちが悪いが、とっても食べられない」)と答えた作者の、その類の軽い機知が発揮されている才筆である(尤もこの言自体は誰かの受け売りらしい)。私は作者を少し好きになりかけ、少し嬉しくもなった。何と言っても世の中に私の好きな作家が一人でも多くいるほうが良いのである。しかし、最後に、生理の汚れが出てくるところで一気に引いてしまった。少し作者に気を許していたら、不意討ちを食らってしまったようだ。人の鼻先に汚れたパンツを突きつけられるというのが、文学に期待する嬉しい不意討ちになりうるだろうか。

第134回 2005年後期 個人的評価ホシ★★★★
カイ  現代の本式の職業をこれほどまでに自由に書きこなした(河野多恵子)
ウリ  何かもうひとつ、短篇としてのコワさが欲しかった。(高樹のぶ子)


 「勤労感謝の日」も「沖で待つ」も、雇用機会均等法が施行され、女性総合職なるものができた頃の話で、作者もまたその時代を総合職(つまり営業職)として生きた人であるらしい。女性と男性が対等であるという理念は、作者の時代でも現在でも未だに現実とはほど遠いが、それにしても、女性への差別の淵源に「血の穢れ」があるとき、男女対等の証として、女性自らその穢れを言上げするということは、必然的なことなのだろう。しかし、その言上げは、この作者より若い世代、男女均等の理念を当然の与件として育ったより若い女性作家たちによって、いくらかは美的になされることになる。私はまだそちらのほうが好きだし、文学としての性能もすぐれていると思う。男女対等というものは、男女の共生を阻むものでは当然ない。
 毒食わば皿まで、あるいは三百円の元が取れない、いずれかの理由で、文庫所収の「みなみのしまのぶんたろう」までをも読んでみた。さすがにこれはバカバカしくて最後までは読めなかった。こんな低質の「小説」まで出版できてしまうほど、芥川賞の威光は強いものなのか。しかしこれはその芥川賞の詮衡委員石原慎太郎を茶化すだけの戯文である。最後に、この風刺小説( ? )での石原慎太郎ならぬ「しいはらぶんたろう」の詮衡会での言動と、「沖で待つ」にはノーコメントだった石原の全体評を併記して置く。

 ブンガクしょうのせんこうかいのとき、ぶんたろうはいつもふきげんで(中略)、「そもそもだいめいがきにくわんのだ ! 」とか「みじかすぎてしようせつとはおもえんな ! 」などとどなりちらすのでした。
 だいにほんブンガクしょうのほうはあいもかわらずへぼばかりでしたが、それでもぶんたろうがえらんでやったへぼさくひんがベストセラーになるのをみると、(おれさまのおかげだ。ありがたくおもえ)と、すこしはきぶんがよくなりました。(でも、おれよりうれるなよ)

 (絲山の「イッツ・オンリー・トーク」に対して石原は「どうして『ただの洒落よ』でいけないのか」と言っている。また「勤労感謝の日」には石原ではないが、他の委員から短すぎると言われていた。)

 「私が新人の作品に期待するいわれは、私にとって未知の新しい戦慄に見舞われることへの期待以外の何ものでもない。」「しかし最近その期待がかなえられることが稀有となってきた。」「多くの候補作の印象は小器用だがマイナーという気がしてならない。これらの作品を読んで何か未曾有の新しいものの到来を予感させられるということは一向にないし、時代がいかに変わろうと人間にとって不変で根源的なものの存在を、新しい手法の内であらためて歴然と知らされるという感動もない。」(石原慎太郎>)