グランド・フィナーレ  阿部和重

 ヘンな小説。そしてつまらない小説。しかし、これは丸きりの新人の試作などではなく、毎日出版文化賞伊藤整文学賞などをすでに受賞している、れっきとした大家の作である。困った。何とかこの小説を面白く読む方法はないものか。
 人が小説をつまらないと感じるのは二つの場合しかない。ひとつはその小説がまるまる既知の世界で情報量がゼロの時。もうひとつは、その小説が理解不可能な時。後者の理解不可能性はその小説の難解さによるのではなく、小説が書かれているoperating system(OS)が異なることに由来する。難解さはむしろ小説の面白さの要素なのであるから。 
 選評も(池澤夏樹を除き)、あきらかに自らのものする小説とはOS自体が違っているのに、何だかムリに評価点を探しているようなものばかりだ。そこには「支持した選考委員の中には『(村上春樹島田雅彦に与え損ねた)80年代の取りこぼしを繰り返してはならない』と話すものもいた」というような事情が働いていたのだろう。
 小説というソフトは走っているが、そのソフトを乗せているOSが違う。いずれのOSがすぐれているという話ではない。ただ端的に違うというだけ。小説ソフトはいずれのOSでも動くが、今後の発展性の方向が異なるかもしれない。そしてデファクト・スタンダードの地位を目指して鎬を削る。スタンダードになれなかったほうのOSはソフトごと廃棄されてしまう。どうやら阿部和重流のヘンな小説がスタンダードになりつつあるのか。
 この小説のヘンな点。つまりOSの違いから操作性に違和感がある点。
 その1。
 主人公(もはや主人公、という物語上の役割も意味がない地平であるが)の「わたし」が確信犯的ロリコンであるという設定。これ自体は別にヘンではない。幼児性愛という「倒錯」に社会的一線をひくために、私たちにもはや「愚行原理」しか残っていない。つまりその倒錯をおしとどめるにたる、根本的な内的原理も有効な社会的規範もない。それは良い。ヘンなのはこの小説に、幼児性愛というものに読者を共犯として巻きこむような官能性が全くない、ということだ。大江健三郎の「飼育」であれば、少年の黒人兵に対する性的な執着に読者も巻き込まれる。そして否応なく小説世界に引き込まれる。こちらの小説の主人公はドジソンさながら、自分の娘を含む幼女の写真を取り、小六の少女と性交までするのだが、その自分の嗜癖の内実は、まるで他人事のように打っちゃっておかれる。主人公を誘惑する性的対象には、手触りも匂いも何もない。そして主人公は社会的には破滅しかかるが、内的には破滅も何も全くしない。あたかも、善悪の彼岸、ラスト・リゾートとしての文学の機能自体が消滅してしまったかのようだ。
 ヘンな点、その2。
 一見レトリックで奇を衒っているような地の文(文語)は、レトリックを信頼しているという点ですでに古色蒼然としている。どのようなレトリックも新奇ではあり得ない、すでにレトリックは終わっているという地平に現在の文学はある。一方、現代風の会話を再構成しようとする会話文(口語)。リアルで新奇な発語を忠実に引き写している風に見えて、実は構成しているという点で、地の文とは地続きなのだが、「わたし」が、どのような原理でこの文語と口語とのあいだにいるのか、実はそこに何らの原理も存在しない、という点。無原理的な、古色蒼然たる新奇性、と呼ばざるを得ないもの。
 これほどの共感不可能性は何を意味しているのか。それは「わたし」イコール「他者」であるということなのか。例えばある小説をつかまえて、この小説には「他者」がいない、などと言えばいっぱしの批評のように聞こえるが、そもそも、表象不可能なものこそが「他者」であるとすれば、小説内に「他者」がいないのは当然である。仮に「他者」を小説内に現出させようとすれば、どうすればいいのか。ドストエフスキーの如く、突如登場人物に説明抜きで暴力を行わせるという手を禁じ手にすれば。
 そもそもOSの違いというのは、古いOSに組まれている、私が他者と出会う、私が他者と言葉で対決するという回路を取り去っているところに見出せるのか。
 このOSの上では、「私」と言っても必然的に「他者」になってしまい、外部にいる女性を亜美と呼び麻弥と呼んで、彼女たちを不可知性の中に置いておいても、必然的にその不可知の「他者」が「私」になってしまう。生者だとばかり思っていた人間が実はとうに死んでいた死人だった、という映画があったが、ちょうどそういう映画で最後に生者と死者が入れ替わるように、「私」(自己)と「他者」(非自己)が入れ替わる。―この小説は、あるいはそれを狙ったものか―そう考えてみると、すこしは面白くなるか。そういう小説なら、是非読んでみたい(考えてみれば、三浦俊彦の小説とはそのようなものではなかったか)。ところが、この小説は「入れ替わり」を見せるものではない。最初から最後まで自他が渾然と一体化しているのだから。
 映画に倣うとすれば、前半、「わたし」をもっと普通に「生者」らしく描いて、入れ替わりに衝撃をもたらすというのがテクのはずだが、この「わたし」は最初から「死者」のようであり、最初から「非自己」なのである。少なくとも映画では愛用されるドンデン返しという大時代な物語の仕組みなど、当分出てくる余地のない文学の現状であるという点では、辛うじて共感可能性が存在しているのか。
 海外文学というHardwareの異なる文学との融合は成し得たかのようであるが、小説のOSが違うということは、そのまま生のOSが違うということだ。他人と人生観が違うというとき、これまでそれは単に生活のSoftwareが違っていることを意味していたのだが、現在、その相違は生活ではなく生(実存)に、SWではなくOSにまで及んでいる。

第132回
2004年 後期
個人的評価 ★★

カイ これは受賞に価する作品である(池澤夏樹)
ヤリ 残念ながら根本的な古めかしさを感じるにとどまった(河野多恵子)