しょっぱいドライブ  大道珠貴

 34歳の女が、38歳の男か61歳の男か迷った末に後者と同棲するに至るというだけの話だが、一体こういう小説をどう楽しめばいいのだろうか。無才の見本のようなこの小説より、選者の評価の分裂を見ていたほうがはるかに面白い。
 「人間と人間関係を描ききった」(高樹のぶ子)、「小説としての表情と厚み」(河野多恵子)と両女性委員からは絶賛されたが、「何の感動も衝撃も感じない」(石原慎太郎)、「小説として単につまらない」(村上龍)と、男性委員からは概ね低評価である。満場一致の支持を受ける作品のほうがもちろん例外的であるにしても、これほどの対照的な評価を受ける例も珍しくはある。
 非通常的な少し逸脱した性のあり方を女性が語ってみせる小説が、男性委員の支持を得るということはある。それは、作家である限り好色であることでは人後に落ちないはずの男性委員の色好みを満足させ、同時に自分が道徳というものからいかに自由であるかということをアピールする機会にもなるからだ。―と、勘ぐりたくなるような、文学賞受賞のシーンは何度かあった。しかし本作は女性委員からこそその支持を得ている。そこに何か掘り下げるべき課題がありそうな気がする。「現実への安易な屈服・あきらめと、終焉した近代化への媚びと依存「(村上)を女性作家が支持するいわれは何か。いや「全体にたくまざるユーモアが染み渡っていて、それがあちこちの行間からちいさなにが笑いや哀しみとなってしたたっている。」(三浦哲郎)と、支持している男性もいる。女性/男性の差は擬似問題で、本当の問題はこういうことである。「にが笑いや哀しみ」という所与の生活感情を変革不能の現実として受け入れるか、それとも抵抗するか。私小説作家の場合、抵抗するとすれば、即ち自分の生活を変革しなければならない。アンチ私小説派は、想像力を旗印として、そこからの脱出路を言葉で照射する方法を探らなければならない。一番忌むべきは、洗練という美名を持った、その実単に自己を慰撫しているに過ぎない無自覚な小説だろう。そして本作はその忌むべき小説の典型である。

第128回
2002年 後期
個人的評価 ★★★span>