パーク・ライフ  吉田修一

  「隅々まで小説の旨味が詰まっている」という三浦哲郎氏の評語を読んで首をひねってしまった。全く面白くもなんともない、という感想しか持ち得なかった私には、そもそも小説の旨味というものが味わえないのだろうか。三浦氏の言う小説の旨味というものを見つけるためには再読しなければならないが、この小説をもう一度読むのも業腹なので、文學界新人賞受賞作の「最後の息子」を読んでみることにした。小説の旨味、小説の旨味、・・・一体どこがおいしいのだろうか。長々と空気の抜けたようなオカマの独白を聞かされただけ。およそどのような文学的企図も私には読み取れなかった。小説にはそもそも「作為」がなければならない。しかしその作為が自然さに到達せず、つくりもの、細工物、などと受け取られるとすれば、それは単に作者に文才というものがないということだ。誰しも自分の才能がとどく範囲でしか文章を書けない。才能がなければ、破綻しないようにこじんまりとした話を作るしかないのだ。この作家の文学的胃腸は衰弱している。だから彼のものする小説はそのような胃にやさしい精進料理のようなものであり、その限りでの旨味なのだ。こちらは体に悪くとも肉汁滴るような肉が食べたい。体に毒でも甘く柔らかい脂身をこそ食べたいのだ。吉田修一は大衆文芸関係の賞も受け、この後毎日出版文化賞というものまで受賞している。彼の本領はより大衆受けのするそこそこの味の小説を作ることにあるのか、それとも時代そのものが衰弱しているのか。

第127回
2002年 前期
個人的評価 ★★

カイ  無理がない。意図的に力を加えたり主張したり整えたりする作意が見えない。(高樹のぶ子)小細工や借り物のエピソードが一切なかった(村上龍)
ヤリ (あえて淡彩すぎる描き方をするという)意図は成功したようであるが、私はそこのところで、作者が力技から逃げたというふうに感じた。(宮本輝)