壁  安部公房

  カフカの最初の日本語訳が出版されたのが「審判」で、昭和15年(1940年)、白水社刊、本野亨一訳ということらしい。6、7冊しか売れなかったらしいその本の1冊を安部公房が買っていた由である。選評では詮衡委員の誰一人カフカに言及していない。わずかに佐藤春夫のみが「鴎外翻訳のロシヤ小説の模倣」としている。しかし本作において安部が「審判」を大いに参考にしたであろうことは間違いないように思われる。同書が岩波文庫に入って広く読まれるようになったのは、本作受賞の15年後のことであり、安部はかなり先行的にカフカに注目していた。とはいえ、やはり読んでみればカフカ的のようでいて、カフカではない。いやさらに言えばカフカ的ですらない。カフカが描いたのは現実である。「変身」でさえ、そこに描かれているのはまぎれもない現実なのだ。しかし、この安部公房の習作は、カフカの文学をシュールレアリスムとして受け取り、それを無邪気に拡大適用して模倣した、非現実の創作に過ぎないように思われる。ここに一つの謎がある。安部の頭脳をもってしてもカフカの移設では描きえなかった日本的現実とは何か。

第25回
1951年 前期
個人的評価 ★★

カイ 新しい観念的な文章に特徴があり、実証精神の否定を構図とする抽象主義の芸術作品である。よく、力を統一して、書きこなしている(舟橋聖一)
ヤリ 写実的なところなどは、ほとんど、まったく、ない。一と口にいうと、『壁』は、物ありげに見えて、何にもない、バカげたところさえある小説である。(宇野浩二)

 カフカの没年1924年に安部は生まれている。
 ◇安部「僕のなかでカフカの占める比重は、年々大きくなっていきます。信じられないほど現実を透視した作家です。……カフカはつねに僕をつまずきから救ってくれる水先案内人です」
 ◇大江/安部対談から
大江健三郎 安部さんはどんな作家に、本当に興味がある。
安部公房 やっぱりカフカかな。マルケスカフカから来ていると思う。彼にそういったら喜んでいた。「審判」かなにか読んだら、翌朝目覚めて、私は小説家になっていたって。