猛スピードで母は  長嶋有

 津村記久子伊藤たかみ大道珠貴吉田修一等の、私が密かに「人生ボチボチ派」と命名した人達の小説を読まされる中で、こういうつまらない小説の背景にある文学「理論」を多少勉強してみた。なぜこんなつまらない小説が書けるのか? それは何か文学的方法を適用した結果なのか。単に才能がないということとどう違うのか。伊藤たかみのところでは、パス回しだけでゴール・シュートがない小説、という考えがヒントになった。長嶋有のこの小説なども、シュートを打たない小説ということで片づけてしまえばいいのかも知れない。一方で私の身体にポストモダニズムというものが入っていないことはたしかである。頭では分っているつもりでも、まだ十分に身体化していないのだ。小説の技法的革新や文学的実験を信じているのはまだモダニズムの小説であり、ポストモダンはそれらの断念の後に成立している、ということ。また小説から社会的言語が廃絶されていること、―社会的言語とは非対称性の言語で、自他の区別をはっきりさせ、お前が間違っていて俺が正しいということ―このことが無効になり、現在は自他の区別のない、対称性の文学足るべきこと、などという理論には深く共感し、納得するが、しかしその結果が面白くなくて良いということにはならない。直木賞推理小説と時代小説に席巻されてしまった今、本当の面白い文学の誕生を芥川賞の方に見出したいのだが。
 例えば「沢庵をかじっている母がこじんまりして見えた」という表現に見られる俳味がこの小説のウリらしいが、私にはとうてい愛せない小説である。制作にかかってこの地を這うようなスタンスが作者の無才のためか厳格な禁欲のためなのか判然としない。

第126回
2001年後期
個人的評価 ★★

カイ  全篇から伝ってくる人間の誇りの瑞々しさに、このうえなく魅かれた(河野多恵子)
ヤリ  なるほど「今日的問題」ではあろう。」「にもかかわらず、私はこの小説の軽さに納得できない(宮本輝)

「人生ボチボチ派」に長嶋有を迎え入れると、「人生ボチボチ・ジャージ派」と改名しなければならないが、高橋源一郎でさえ、小説のラストを書くときは正装するというのだから、人前に出るときはジャージくらい脱いで欲しい