春の草  石川利光

 内田樹教授によると、批評家というものが寄生していない時代小説は興隆し、小説の詰まらなさを言い立てる批評家がいる純文学はそのためにやせ細り衰退しているという。ささやかな本ブログにおいても十分自戒すべきところである。とはいえ時代小説には純文学にはない愉悦というものがあるだろうし、私が文句たれるのもただ愉悦というものに欠ける小説に対してだけである。申し訳ないが、本作もそのつまらない小説の一つだ。平板な文章が続くので気を抜いて読んでいたら、登場人物の関係が分らなくなった。長編小説でもあるまいし人名のメモを取らなきゃワケが分らなくなるのは、人物の立て方が悪いということだろう。作家が抱いている登場人物のイメージと言葉を介して受け取るイメージとの距離がありすぎるということもある。もう一度確認しつつ読むと、自分の別れた妻が義父の子供を宿して中絶する、というような話だった。あるいは妊娠したので別れたのだっけか。ことほど左様に分りづらい。いずれにしても丈の低い人間たちの愛憎の一齣をちょっと書き付け、満たされないもやもやとしたものの残存の提示を文学と取り違えているだけのもの。「春の草」って花鳥風月の詩情を言うのではなく、「アオカン」を想起させるものとして呼び出されているに及んでは何をかいわんや。

第25回
1951年 前期
個人的評価 ★★★

カイ  林芙美子よりも若々しくやわらかい(瀧井孝作)
ヤリ  自然主義文学の亜流で少し手のこんだ世間話を腕達者に書いているという程度(佐藤春夫)