広場の孤独  堀田善衛

 朝鮮戦争勃発後の、なお破壊的戦争の拡大が予見された混迷の時代の中で、良心的知識人の存命の道を「小説」を書くことに求めて行く、その経緯を書いた小説。印象的な作中人物であるティルヴィッツ男爵という亡命貴族(国際ゴロ)のしたたかな生存術に較べると、世間の外側に出るだけという、創作による延命方法はいかにもひ弱なものに見えてくる。国外脱出をあきらめ亡命を断念しこそすれ、作中の日本人はまだ日本を引き受けられずにいる。ただ日本に対して付かず離れずの位置取りをしただけである。そこで作者は「広場の孤独」を表明し、単独者であることを宣言するが、その実、求めたものは職業としての作家という社会的地位である。その地位さえ得れば世俗の塵界に塗れずして生存が許されるもののように思われていたのだ。表面の重厚さの陰に潜むこの知識人特有の「いい気さ」は、坂口安吾に見抜かれて、激越に否定されている。
 相変わらず「作り物」を嫌う評家が存在するが、ティルヴィッツから供与されたドル紙幣を焼いてしまう件は、小説の流れの中では不自然な行為で、ここに「作り物」性を感じはした。というよりうっかり読み飛ばした。

第26回
1951年 後期
個人的評価 ★

カイ 「広場の孤独」は描写を出て自己の表現をもっている(石川達三)
ヤリ  小説らしいところのほとんどない小説―今の時世にむくような事を書き、それにふさわしい理窟も述べている―読ませるところもあるが、ウスッペラで、作り事が、作り事になって、真実の感じがしない(宇野浩二)

 坂口安吾の評から。<日本の左翼文学がさうであつたと同じやうに、自分の側でない者に対する感情的で軽々しい決めつけ方は、特に感心できません。つまり、この作者が人間全体に対してゐる心構への低さ、思想の根の浅さ、低さだらうと思ひます。文学はいつもただ「人間」の側に立つべきで、特定の誰の側に立つべき物でもありません。>