アメリカン・スクール  小島信夫

 敗戦国民たる日本人の、アメリカと英語に対する屈折した思い。アメリカ女エミリーは、美しいとは形容されるが、その顔が見えない。誰一人として、まともに彼女を見ていないからだ。ナイフ・フォークにまで劣等感を覚え、箸をみじめな道具と感知する、敗戦国民。このような叙述すべてが文学の極小的運用である。日本人が精神年齢十二歳と評されたこと(これは実は日本人の精神年齢ではなく、日本国のそれを指したものらしい。即ち日本の政治的成熟度がそれほど幼いので、さほどの抵抗を受けることなく、教育的に共和国に移行できるという意味)も知らず、知らずして自ずからその評の適切なるを証明しているような、日本人によって書かれたその同胞の素描。芸術意識も学問意識もなく、たまたま「小説」という非構築的な作文が生きのびる場があったので、それを利してそこに逃げた人間のただの感情の吐露。自虐による個人的な快感。これが果たして「深みのあるユーモア、重厚な風刺」と言えるのだろうか。後年村上龍を否定した江藤淳がなぜ一方でこんな小説を良しとしたものか、良く分らない。駆け出しの批評家としての遠慮でもあったのか、それともこの共鳴の中に江頭淳夫の深層が存在していたのか。すべての作家はその処女作を越えられない、ということが仮にほんとうであれば、このような処女作を持ったしまったことは、作家にとってほとんど呪いのようなものだ。彼の晩年の「残光」のようなただの耄碌した文章を、「最後の文章」などと言って崇め奉る人がいるけれど、一体何を考えていることやら。

第32回
1954年後期
個人的評価★★

カイ 人間の劣等意識を執拗に追求した作品で、一時期の日本人を諷刺して時代的意義もある力作(井上靖)
ヤリ まあまあ長いこと御迷惑かけましたと、芥川賞を卒業してもらうような気持(川端康成)