日蝕  平野啓一郎

 その年齢を思えば、作家の該博な知識と文章力には驚嘆すべきものがある。しかしこの小説の派手な外飾をそぎ落として単にその「内容」だけを見ると、最初に壮大な西洋の知の枠組みを提示した割には、小説の筋は何か性的猥雑さの中に聖性を見る、といった極めて単純な話になっている。一見理知の極地のような西洋のソフィアの根底に妖しげな錬金術やらライヒを思わせる性の秘儀やらがある、ということの新たな提示でもない。浅田彰から単なる幻想オタクとか言われてもこれでは反論できない (「普遍論争」を言うなら、唯名論実念論を超えた様相論理学を小説にした三浦俊彦のほうが遥かに文学的な取り組みをしていると言えるのだが、彼の作品は評家の理解を超えてしまっていたようだ)。アリストテレスの異端性をめぐる修道士の話としてはかの「薔薇の名前」を思い起こさせる。「薔薇― 」における時代は1327年に設定されており、本作はそもそも1482年の話としているので、ほぼ150年を隔てた時代設定ということも合わせて、二つの小説の間には何の文学的「関係」もない。とはいえ外観の類似からあるいは換骨脱退の指摘があるかと思いきや、実際にクレームがついたのは佐藤亜紀からだった。しかしこれは、彼女の作品「鏡の影」との類似性から本作を盗作呼ばわりした、ほとんど被害妄想的クレームに過ぎない。
 ―記号論とは、原則として、嘘をつくために用いられうるすべてのものを研究する学問なのです―(パンコルボ)、その記号論によって書かれた「薔薇の名前」に自ずからポストモダン的な限界があるように、わが「日蝕」の方にも自ずと作品の宿命としての限界が存在する。この小説の、その結構の整った文章(晦渋な語彙をさておけば、非常に明晰な文章である)は、例えば中上健次が過剰に所有していた表出すべき衝動というものの不在をこそ示している。他ならぬこのことがこの作者の限界であると思われる。どうあっても何ごとかを表現せずにはやまない、という文学への衝迫の根源的な欠如のまま、これだけの人工的世界を構築するために、知識と技術を習得しようとしてそれを果たした、その情熱のありように驚くばかりである。その情熱の淵源は疑いなく作者の自己愛である。作家とはもともと自己愛の塊りのような存在だが、この小説の作者に、全く現代的な自己愛の一つの形を見る。三島由紀夫との類似性は、華麗な擬古文とやらではなく、その自己愛にこそ見出すべきではないか。
 「決壊」を書き「ドーン」を書いた作者は紛れもなく現代文学の勇者の一人となった。そのような勇者が「新人賞」出でないということは象徴的なことのようにも思える。自分が美人を決めるのではなく、審査員が誰を美人と思うかをあてる美人コンテストのような新人賞しか文学の入り口がない状況はいつまで続くのか。本作を三島由紀夫の再来として認めた編集長の美しい誤解こそ、文学が生き延びるために縋るしかない隘路か。

第120回
1998年後期
個人的評価 ★

カイ  まことに若々しい野心と膂力(田久保英夫)
ヤリ  衒学趣味(石原慎太郎)