白い人  遠藤周作

  初読時衝撃を受けた本作の再読を楽しみにしていた。間に長い時間を置いた再読であるが初読時と同じように圧倒される。終盤の錯乱の描き方がうまい。再読のもう一つの楽しみが本作とセットの「黄色い人」。しかし、こちらも初読時同様、ただ面白くないだけだった。あるいはもう少し深読みが出来る小説かと思っていた。そうでなければ「白い人」とのバランスに欠ける。初読時にこの「白い人」「黄色い人」、西洋人と日本人のペアの、あまりの内容の重量の違いに不審を抱いていたが、再読によって前者に含まれた虚偽と後者に隠された内実が見出され、その不審が一掃されるという期待があったのだ。その期待はかなえられず、あくまでも白い人の世界は緻密で、黄色い人のそれはスカスカのままだった。一神教的世界に引き比べられたときの、多神教世界の生温さ、ということだけではないような気がする。
 二葉亭四迷以来日本の小説は、西欧の小説に倣い、「私」を立てようと努力してきたが、何のことはない、ここに至るまで「私」など全く立っていない、ということがあからさまになったのだ。「黄色い人」の主人公は南京大虐殺を犯した民族の一員として自己嫌悪に陥っていたりする。おそらくアグネス・スメドレーの没年(1950年)にフランス留学した著者が彼女の南京虐殺20万人説を信じさせられていたのだろう。納得が行かないまま「アデンまで」「学生」も読む。これもつまらない。特に「黄色い人」の原型と思える前者は、仲間内では好評だった由だが、今読んで見れば作者がなぜ絶版処分にしないのか不思議なくらいの未熟な「作品」だ。白人の白い皮膚の前でやたらに自分の黄色い膚を嫌悪してみせるが、自虐だけなら「家畜人ヤプー」のほうがよっぽど文学かも知れない。
 一方で「白い人」のほうはようやく少し欠点が見えてきた。それは主人公をサルトルを思わせる眇目の醜男にしている点だ。その容姿のために母の愛の欠落を生きたという含みになっているが、悪の由来がそのようなものであればまだ対処しやすい。しかし本当の悪は完全さからも生まれるし、愛からでさえすら生じるものであるとすると、この主人公の人物造型に少し安易さがあるということになる。
 いずれにしても、白と黄色のこの遠近法を遠藤は「海と毒薬」に至るまで維持していた。そこでの遠藤の主張は単なるキリスト教優越主義・欧米優越主義に過ぎないように思え、恥の文化より罪の文化のほうが高級である、というような説に毒されていただけのように思える。足元の恥の文化を「狐狸庵」として一種おちゃらけて生きてみせたのは、遠藤にとっては罪の文化の中で受難を生きることに等しかったのかも知れない。

第33回
1955年前期
個人的評価 ☆☆

カイ  筆も確りして最後まで読ませる(井上靖)
ヤリ  アカデミックの形式主義か、飜訳小説に似て、瓶詰をたべるような味だと思った(瀧井孝作)