太陽の季節  石原慎太郎

  戦後文学史にわれわれは一人の天才を持った。石原慎太郎である。ただしこの天才は肉体的天才と言うべきものだった。裕次郎が肉体的に天才的な俳優だったのと同じ意味で、石原慎太郎は天才的肉体を持った作家だったのだ。それを多分本人が希望するであろうように、ランボー的天才と言っても良いが、ここではサガン的天才と言うにとどめる。サガンの痛切な小説が、ただのわがまま娘の行状記に過ぎなくなるほど、読者側が肉体を失ったときに、石原の小説もまたそのようなもの(成金の息子に過ぎないガキの放逸)に思えてくるだろう。この天才的小説を感受するのには肉体がいる。肉体の衰弱ととものこの小説の放つ幻惑は薄れていく。しかし肉体の衰弱を待つ前に、この小説の幻惑から離脱するのに格好のものがある。映画「太陽の季節」である。見てみると良い。葉山だか大磯だかの汚い海にヨットを浮かべ、男たちは砂浜でマージャンをしている。さらにヨットの上で歌う歌は何かといえば「証城寺の狸囃子」なのだ。妙にビンボーくさい。映画として持たざるを得なかったこのリアリズムを通過して、さらに肉体をすでに喪失した年齢の人間としてこの小説を読むと、それはどう読めるか。全編これ胸が悪くなるような情欲と暴力の発露だけの小説である。主人公の高校三年生が恋仇のバンマスを殴るあたりは痛快に読めなくもないが、良く考えるとこれは卑怯な不意打ちで、殴られる方も、トランペット吹きというヤクザな商売をしている割に、一発でキャンと言ってしまうのは情けない。報復するか暴力団にでも頼んで絞めてもらうべきだろう。暴力の横行はまだまだ続いて、主人公は中絶で死んだ女の葬式に乗り込んで葬儀をめちゃくちゃにするが、これに対して遺族の誰も、何もしないらしいのである。こんなやつは、キメ台詞を言わせるヒマも与えず、遺族皆で袋叩きにすべきであろう。石原の小説は、女は抵抗もなく強姦され、男は殴られても反撃しない、という点では、安手の冒険活劇に似通ってしまうのは否定できない。
 若者の無軌道な性と暴力と無慈悲な心理の話は、面白く読まれて享楽されたが、所詮は(石原愛用の言葉が既に出ている)ガキの放逸にすぎないものに、そこに無制約の生の原型らしきものがあるからといって、いつまでも共感を覚え続けることは難しい。石原の源流の一つと思われるのはアルツィバーシェフだ。彼は合理的個人主義者で、人生とは自分の欲望を自然のまま満たすことに他ならず、それ以外はすべて偽りだ、という考え方から「サーニン」(1907)を書いた。その続編「最後の一線」はすでに衰弱したのか自殺を賛美する内容になっているらしい。しかし石原は衰弱するどころか「処刑の部屋」「完全な遊戯」を書き、強姦の模倣犯を全国に続出させた。肉体的天才作家と称する所以である。読者のみならず作者もまた肉体を喪失していく宿命にあるが、この天才作家が肉体を喪失した後に、性描写のあるマンガの販売を規制する都条例を作ったり、「新・堕落論 我欲と天罰」という、震災被害者の感情を逆撫でする、坂口の「堕落論」とは真逆の説教文を書いてしまうのも必然である。

第34回
1955年後期
個人的評価★

カイ  純粋な快楽と素直に真正面から取り組んでいる(舟橋聖一)
ヤリ  時代に迎合したくだらない通俗小説(宇野浩二)