ゲルマニウムの夜  花村萬月

  自称犯罪者たる少年が修道院(教護施設)で見習いシスターを犯す。この少年の悪ぶりには、ちょっとこけおどしのようなところがある。それに、少年の「私語り」だからムリもないが、ときおり書きつけられるアフォリズムもいまひとつピリッとしない。小説の中にアフォリズムを書きつける時代錯誤的な勇気は買うにしても。しかしこの話が、文庫本の帯の宣伝文句にあるような「戦慄の問題作」とは思えなかった。むしろ、例えば「白濁の放出」というような表現に引っかかる。このような言い回しは、性交を描く場合に避けがたいが、まさか得意になって使っているとは思わないが、このような表現を強いられることに対する恥じらいの感覚が必要ではないか。何か新規な言い方をしないと既成に絡め取られる。しかし、それが言葉である以上新規なものは実は存在しないのだという見方が必要なのだ。「白濁の放出」というような言葉しか手元に持ち合わせがなく、それでやっていかなければならないというとき、羞恥心なしに表現に赴くことはできない。全てこれらの比喩というレトリックはいま危殆に瀕している。というか、ほとんど無効になっている。比喩巧者の三島や大江はすでにして遠い作家である。現在、比喩を有効に使う数少ない作家は村上春樹だが、彼の比喩は計算されすぎていて、ときどき「はい、はい、そうね」と言って聞き流したくなることがある。ともかく「白濁の放出」という乱暴な隠喩に直接的に現れているように、私にとっては、この小説は無理な誇張によって生の強度を偽装する「劇画」の世界でしかない。比喩というレトリックの再生のために必要なのは、比喩がつねにその作家にとって見出された光明であり、比喩がつねにギリギリの表現の脱出口となるような、彼我の世界をつなぐ言葉が血肉化した作家の出現である。そのような作家によってこそ、生の強度というものが表現されうる。

第119回
1998年前期
個人的評価★★★

カイ  冒涜の快感を謳った作品。文学こそが既存の価値の本質的破壊者であるという原理(石原慎太郎)
ヤリ  ほんものの冒涜者はしょせん無力であり、無力であるかぎり、心ならずも、「敬虔」たらざるを得ないのではないか(古井由吉)

 福田和也「作家の値うち」(2000)に、「『イグナシオ』を改作して芥川賞をせしめたという快挙を成し遂げた点では記憶に値する。見事にのせられた芥川賞の選考委員諸氏は、いまだにケジメを取らずに泣き寝入りの状態である」とある。良く分らないが、業界の一端の事情がうかがえて面白い。花村は同じ「無頼」として仲間扱いされるのを嫌ったのか、浅田次郎の通俗性を嘲笑した事がある。しかし、「作家の値うち」では花村は「純文学」ではなくしっかり「エンタメ」に分類されているよ。