海峡の光  辻仁成

 タイトルなどには「電通的」センスがきらめいているが、これが芥川賞の「傾向と対策」小説であることはミエミエだし、<屹立する>、<夥しい>、<飛翔>等の、「文学」をなそうとする人間がいかにも愛好しそうな語彙のオンパレードなのも気になる。つまり、三島由紀夫が、鴎外の「水が来た」という簡潔な文章に対比させて論じた、過剰文飾の悪文の典型が見られるのだ。極めつけは「間雲孤鶴」。この言葉がラストで唐突に出てきたときに、トヨザキ社長が揶揄した郷ひろみ「ダディ」の「盲亀の浮木」を思い出した。
 それはさておき、内容はどうなのか。人間の内面の不条理。作者はそれをテーマとし、それを描出して見せたのか。私にはただ作品世界の統御が甘いので結果として作品世界に不条理感が漂ってしまっただけのように思われる。作者の統合不充分による作品世界の解体が逆に何か深遠なものを表現しようとしているのだろうと好意的に受け止められたのだ。特に花井なる人物の造型は不可解。一種の悪の天才が、むしゃくしゃしたからという理由で人を傷つけ刑務所に落ちてくるなどということがありうるか。また刑務所内でも悪を露出する彼がずっと所内にとどまることを望むなどということが。肝腎の貧しい漁師の息子たる看守には、その出自に見合わせたのか、洞察力というものがまるでない。看守という職業にありながら、映画「es」で摘示された人間の攻撃性への洞察がない。人間悪を追及するならその視点は不可欠だろう。なにか「無情やな」というような詠嘆で終りがちな日本の小説の、ある意味でこれは典型的な例である。渡部直己の「電通文学にまみれて」が1991年の1年間で終わっていてよかったようなものだ。もっとも渡部がいくら「電通文学」を弾劾しても、芥川賞を取ってしまう書き手はいくらでもいるのだけど。

第116回
1996年後期
個人的評価★

カイ  不可解な人間の闇を描くことに成功した(宮本輝)
ヤリ  この語り手の教養に合せて文体を選んだと見るのならば、これだけ言語能力の低い者の一人称で小説を書かうとした作者の責任が問はれなければならない(丸谷才一)

 小説家となるまでの行程スケジュール表を作っていた辻は、マスターズ優勝までの行程スケジュール表を作っていた石川遼と同じく、立志伝中の人と言える。「間雲孤鶴」の向うを張るわけではないが、「呉下阿蒙」ということもある。すなわち「士分かれて三日、即ち括目して相待つべし」である。フランスのフェミナ賞というものも取っている彼は、その後大いに研鑽して優れた書き手に変身しているのかも知れない。しかし、それを確かめるために彼の近作を読んでみるのも億劫である。この初期の作品を読むだけで、彼が文学などに傷つけられていないことは明白に分るのだ。彼の作品と良質の文学との間には、ミュージシャンとしての彼が中村雅俊に提供したらしい楽曲「耐えられない愛の軽さ」とクンデラの「存在の耐えられない軽さ」との間にある距離と同じくらいの径庭があるように思う。