裸の王様  開高健

 すでに釣りや酒や美食や哄笑が、つまり開高健のすべてがここにある。その後ベトナムの戦火を潜り抜けた後も、彼が戻ってくるところはここしかなかった。開高健は小説家というよりも名エッセイストというべきであり、この受賞作にそのエッセイの源泉を見る思いがする。

第38回
1957年後期
個人的評価☆☆

カイ まっとうに主題と取組む熱誠な作風はチョコ才な作品の横行する現代では最も珍重すべき(佐藤春夫)
ヤリ 作中人物は、大方中間小説のように安っぽい描写(瀧井孝作)

 開高健大江健三郎と共に、1960年の「中国訪問第三次日本文学代表団」の一員として中国を訪問、毛沢東周恩来、外交部長陳毅将軍などに面会している。このとき開高30歳、大江は弱冠25歳である。この年齢差もあり中国から受けた洗脳の深刻度はおのずから異なるが、二人が中華人民共和国の宣伝に使われてしまったことは否定できない。特に大江の後の政治活動を見るとこの洗脳から受けた彼のダメージには深刻なものがある。同代表団の他のメンバーは次の通り。
○団長/野間宏(45)、その全集からは削除されているが、彼はスターリンを賛美する詩を書いていた。訪問後ソ連に傾倒しすぎているとして、日共からは除名された。
亀井勝一郎(53)、若い頃マルクスレーニン主義に傾倒していたが、その後共産主義とは一定の距離を取っている。帰国後「中国の旅」を書いた。
○竹内実(37)、中国研究家、その後「現代中国研究会」を長く主宰し、会長を務めた。
松岡洋子(44)、評論家、翻訳家。エドガー・スノウの「中国の赤い星」を訳し、日中友好協会の常任理事などを務めた。

 訪問団が訪れた1960年は60年安保の年であり、訪問団員は一方で過去の日帝の罪過の跡を見せつけられ、一方で米国帝国主義と戦う素晴らしい日本人民、と持ち上げられて、自らの反米意識を強化し、親中国になっていくのである。この年は「大躍進」が始まって2年目の年であり、中国全土に広がった飢餓がピークに達した時でもある。訪問団が中国にいたまさにその時、リアルタイムで膨大な数の人間が餓死し、餓死しつつあったのだ。死亡者の累計は3,600万人にも及ぶという。しかし訪問団がそれを知る由もない。団員には「どうせいいところしか見せないんだろう」という程度の予測はあったが、まさか中国政府が、訪問地、接触する人々、接待時のセリフなど、全てに入念な用意をしていたことまでは思いつかなかった。外国からの客は一般庶民とは完全に隔絶されており、衣食が足りている偽の状況をわざわざ用意することもあったのだ。人間に対して辛辣な目を有しているはずの開高も、北京大学の日本語学部を訪れたとき、そこに数十人いるはずの学生が、全員「下放」で、麦刈りに行って不在だという話を素直に信じている。結局、そこの教授たちとしか話をすることはできなかった。「歴史博物館」、「革命軍事博物館」、「民族文化宮」などを見せられ、いかに中国側が人民の自由のため戦ったのか、日本の軍国主義者がいかにそれを踏みにじったのか、頭で理解する以上に生理的に体に沁みこまされた。「民族文化宮」では、チベットの地主のこの世のものならぬ悪行非道ぶりが知らされ、中国人民軍がそれを解放したというストーリを聞かされる。開高の「鮮烈な三つの舞台 中国印象記」という文章には、この「民族文化宮」のおどろおどろしい見世物を見せられ、それを一も二もなく信じ込み、六人の団員全員、蹌踉として外に出てくるさまが描かれている。しかし「チベット叛乱」というものの事実がもしもその様なものだったとするなら、今もチベットで中国への抗議の焼身自殺する人がいるのはなぜか。「革命軍事博物館」などで見られる、日本軍の「三光作戦」関連の展示物も同じようなものだろう。中国において日本軍が蛮行を働いたことは事実であるが、その事実が中国側から主張される場合、そこに必ず意のある誇張が紛れ込んでくる。それは岸田秀が分析しているように、自らの蛮行を常に外部に転化するという人類一般の性癖の現れであり、中国にとっては、その革命戦争を美化するための歴史捏造戦略の一環であると思われる。
 さて、その「大躍進」であるが、訪問団と同じ年にかのエドガー・スノウも中国を訪れており、わざわざ「今日の赤い星」なる文章を書いて、飢餓の存在を否定している。スメドレーとともに中国の権威とされていたスノウの証言を誰もが信じただろう。実際は毛沢東の言ったことをそのまま伝えただけだったのだが。1976年、「週刊文春」にイーデス・ハンソンと夏之炎という匿名の中国人ライターとの対談が掲載された。そこでその夏之炎が、「大躍進」の期間中、たまたま三年も不作が続き飢餓が発生していたことを始めて明かした。どうやら大厄災があったらしいという、台北や香港に伝わっていた噂がようやく事実だったと確認されたわけだ。開高も、「15年経たなければ中国のことは分らないのか」という半ば自分の不明を認めるような文章を書いた。ところが、である。本当の中国を知るのには15年どころではなかったのだ。50年、実に半世紀の経過が必要だった。本年(2012年)になって出た楊継縄の「毛沢東大躍進秘録」に、この飢餓の実態が余すところなく書かれている。この飢餓は天災などではなかった。三年間の作付け量は不作どころか平年並みだったのであり、平年を上回る年すらあった。全ては「人民公社」による「集産制」の弊害であった。党という組織の中で権力を得るためなされる「人民公社」(コミューン ! )間の競争。それぞれが競って高い生産目標を立てる。実際は実現不可能なほどの目標を。そして現実の収穫が計画に満たない場合でも、計画を達成したと、あるいはそれを上回ったと報告がなされる。正直に報告すれば政治闘争で負けてしまうからだ。そしてその報告どおりに農民から作物を徴収する。当然不足が生ずるが、それは農民の中の右傾分子が隠匿しているためだとされる。農民が拷問される。死亡者は全てが餓死者ではない。拷問で鏖殺された人間もまた膨大な数に登ったのだ。収穫量が虚偽の数値で集計されるので、実際は農民の口に入るものがないのにもかかわらず、輸出という形で国外に流出してしまい、ますます飢餓が加速する。共産主義の理想に則り、食堂も共有化され、それぞれの家庭で食べるのではなく、公共食堂で食べることになる。老若の別なく貧富の隔てなく皆が公平に同じものが食べられる理想の食堂。この理想は現実化されたか。とんでもない。公共食堂は、設立されるや須臾にして一部の幹部が食料を独占するためのの機関になり、食料の配給権によって農民の生殺与奪を支配する手段に変わっていた。農民は鍋など調理に必要な道具を取り上げられ、野草を取ることすら禁じられていた。人肉食が横行した。食べるためにわが子を殺すことすらあったという。そもそもは「大躍進」で工業に重点を移動させたため、工場労働者の食料需要と農業による食料供給がアンバランスになったことが根本要因であるが、「共産主義」という人間の善性を前提とした思想によって作られた組織が、惨事をさらに拡大したのだ。ちなみにこの本では、「アジアの戦争」という著作で日本に対する憎悪の言説を振りまいたスノウは、「自分が騙された後、人を騙した人間」と評されている。スメドレーもそうだが、先端的ジャーナリストをもって任じていたスノウは、実は見事に中国共産党の宣伝役をやらされていたにすぎなかった。
 この「大躍進」の失策で窮地に陥った毛沢東は、巻き返しのための新たな方策を考えた。それは「文化大革命」という、さらにまた別の大厄災を中国にもたらすものだった。