飼育  大江健三郎

  原初からただ官能だけに突き動かされている作家。撃墜された飛行機から山村に逃れた米兵、という素材から、作家は何らの政治的寓意を引き出さない。引き出したのは黒人兵の肉体に対して抱かれた、少年の官能的執着である。「閉塞した状態における人間について考えたかった」とするなら、外的閉塞を、内的想像力の法悦で生存可能なものに変質させる、というのが大江の提示した回答だろう。そういう資質を持つ作家がヒロシマやオキナワで政治的判断を強いられると、単純で底の浅いただのリベラリストになってしまう。彼の幸運は初期に江藤淳という併走する評論家を得たことか。しかしその蜜月も「万延元年のフットボール」まで。そもそもプリンストン大学に留学し、屈折した親米=反米感情を抱く江藤と、文学代表団の最若年の団員として中国を訪問し、中国から歓待/洗脳を受けて以降(この「中国訪問第三次日本文学代表団」については、開高健の項に書いてある。そこで団員は毛沢東周恩来、外交部長陳毅将軍に面接したが、加えて李長春なる人物の「接見」も受けた。彼は共産党政治局常務委員で「宣伝・思想教育」担当である)、ストレートな親中=反米になってしまった大江とがいずれ袂を分かつのは必定だった。大江が帰国後に毎日新聞に寄稿した「北京の青年/光の中のかれらの時代」を読むと、彼がいかに見事に洗脳されてしまったのかが良く分る。その時「大躍進」で餓死した3,600万の人民の死臭は大江の鼻には届かず、彼はただ北京の青年の「目が明るい」ことにノーテンキに感激しているのだった。大江はその後も明確に天皇制否定、自衛隊否定の立場をとる。中国は有力なフロントをこれで確保した。大江は日本に防衛大生がいること自体、「我ら世代の恥辱」だと公言した。コミンテルン・フロントでもなければこんなことは言わないだろう。彼が後日ノーベル賞を取ったとき、中国は笑いが止まらなかったはずだ。思想工作の謀略としてこれ以上の成功はない。大江は、ノーベル文学賞は受けても「民主主義者」という名目の許に文化勲章は拒否した。ノーベル賞はスェーデンの市民から貰うものだからかまわない、という強弁を立てて恥じない。市民が1億円も拠出するはずもない、ということには思い至らなかったのか。スェーデンはそもそも王国であるし、ノーベル文学賞の選考を行う、スェーデン・アカデミーはグスタフ三世というれっきとした世襲の王様が設立したものだ。資金はもちろん「死の商人」、アルフレッド・ノーベルの遺産である。授賞理由についてそのスェーデン・アカデミーは何と言ったか。「大江氏の作家活動は、(日本における)悪魔祓いの行為である」。つまり、日本という経済大国が悪魔の国であることの宣伝にこれ努めてくれた、そのことに対する褒章だったに過ぎない、と考えて良い。大江が国家を否定するならそれも良いが、その割にノーベル賞を辞退したサルトルパステルナークほどの潔さもないのは、戦後民主主義を信奉する人間の、鵺のような気持ち悪さを良く表わしている。
 「洗脳」というのは、矯激な言い方だが、そうでも考えなければ、 閉塞した社会からも愉悦を汲み取る感性を持っているのに、なぜ、存在しない社会、幻の「解放された」社会を措定するのか。人間に対する、その根源的悪にまで到達する文学的洞察力を有しながら、それら人間的現実と相容れないソ連、中国、北朝鮮ユートピア幻想になぜ安易に就いたのか、という謎が解けない。

第39回
1958年前期
個人的評価★

カイ  文章文脈は、もしも日本語に西欧風の関係代名詞があったなら、さらに明快だろうと思われるほど西欧風(井伏鱒二)
ヤリ  疑いようのない文学的才能の氾濫と表裏して非人間的な悪戯気を感じさせる(中村光夫)

 大江の文学は所詮個人的な不幸と、その癒し・救済にとどまるのか。その癒しは子息である<光>の音楽的「才能」に拠っている。すべての同様な不幸を抱える家族に同等の救済があるわけではなく、大江の文学的道行きは、それらの人々にとっての救済の道足り得ない。私は大江の良き読者ではなかったが、それでも「個人的な体験」(1964)という小説の、「個人的」という言葉に何の文学的コノテーションもなくもそれが文字通りの意味に過ぎないことを知ったとき、幻滅と脱力を感じたことを今でも思い出す。これは不遜な言い方だが、障害を持つ子供を持ったことは大江にとっては幸いなことではなかったろうか。そのような個人的事情がなければ、彼は政治的のみならず文学的にも共産主義に傾倒して行き、早々とその破綻を見ていたかも知れない。しかし<光>のおかげで彼は辛うじて自らの実存の中にとどまることができ、いくつかの優れた小説を書くこともできたのだ。