蛇を踏む  川上弘美

 これはもう評価のしようがない。What’s in it for ? とでも聞きたくなるような内容だ。「好きで『うそばなし』を書いている」と言うのだから、お好きに、とでも言うしかないが、文学史的にこれをどう考えたらいいのか途方に暮れる。文庫本解説の松浦寿輝氏は「フェミニンな内田百輭」などと言っているが、とてもとてもそんなものではない。こういう評言を聞くと、私は対人関係空間の親疎さの絶対性というものを考える。松浦と川上とは端的に同業者であるし、あるいは個人的な親交もあるのかも知れない。少なくとも相手方の本に解説を寄せるくらいの関係ではある。それだけの「親しい」関係を前提にしてみれば、川上の文章が内田百輭のそれと読めてしまうことはありうる。まさか業界の繁栄を願うばかりに、苦し紛れにひねり出した社交辞令ではあるまい。私と川上という、これ以上はないくらい「疎い」関係を前提にしたとき、 川上と百輭との間にはそれこそ一億恒河沙くらいの距離があるように思えるのだが、それは社会的には一読者の否定的な感想として処理されるだけである。しかし、これだけは言いたい。百輭の文章に、例えそれがどんなに荒唐無稽な怪談であろうとも、What’s in it for ? と問いたくなるようなことは絶えてない。ただ、その文章の絶対的な姿の前に萎縮して端坐するだけである。
 「うそばなし」に赴くなら赴かざるを得ないだけの何か切実なものが、私は欲しい。確かに「錯乱の噴出により理性の秩序を脅かす前衛の身振り」はない。だとしたらここに一体何があるというのか。

第115回
1996年前期
個人的評価★★★

カイ  ただの変身譚というより、変身への誘惑に対する闘いを足場にして生み出された、反変身的変身譚(黒井千次)
ヤリ  蛇が人間と化して喋ったりすることに、私は文学的幻想を感じない(宮本輝)