海人舟   近藤啓太郎

  ―作家修行として、そうだな例えば海人の人たちの心情と生活を描ききってみよ―そのような課題が与えられ、それに応えようとした小説、のように読める。だとすると、<―というようなことを方言で言った―>式の手法(大江健三郎「飼育」)は通用しないから、登場人物に方言を喋らせることになるが、この方言はどこのものなのか、いささか折衷的な方言のように聞こえる。さらに、小説の結尾、「いつまでもギラギラと輝く海を凝視し続けた」という、「いつまでも」に「ギラギラ」までついた、一種の典型的見得のきり方はどうか。このような「見得」はむしろ全体の効果を殺ぐということに注意すべきだ。唐突な、しかも畑違いの比較だが、ボルヘスの「マルコ福音書」の抑えた結語をこそ参照したい。あれを「十字架に太陽の光がギラギラと射していた」などどすると台無しである。ところで、海人の世界を一体どのように取材したのかと考えたが、著者の経歴を見ると二十五歳の頃、千葉の鴨川で一年間実際に漁業に従事していたらしい。となるとこの変な方言は千葉県のものだったのか。どうもそうとも思えないのだけれど。それにやはり、自らの体験を敷衍して書いた小説というより、「取材小説」のようにしか読めないのには変わりない。一年という時間は体験を小説に昇華させるのには短すぎるのか。ちなみにこの小説の発表は三島由紀夫潮騒」の二年後である。「潮騒」こそ「取材小説」であるが、主人公の男女はともかく、そこでの漁業に従事する人たちを描く精彩において、こちらのほうがよほど「経験小説」のように読ませるのは、やはり三島の才筆の賜物である。

第35回
1956年前期
個人的評価★

カイ  一つの小説の形として成功しているし、部分にすぐれたところもある。また作者に好感を持てる(川端康成)
ヤリ  人間の掴み方も素朴というより通俗的に思われ、海底の描写も作り物の感を払拭できなかった(井上靖)