水滴  目取真俊

  世界を二項対立的に裁断する手腕に長けた宮台真司が、「物語」を裁断したものに「アーヴィング的」と「サリンジャー的」というものがある。前者は「世界の不条理(世界の謎)を描くもの」であり、後者は「実存の不条理(自分の謎)を描くもの」である。その映画論の中で宮台氏は日本人の作る物語が後者に傾きがちであることを指摘する。この「水滴」という小説は、その少数に属する「アーヴィング的」なものであり、勢いサリンジャー派である多くの評者は首を傾げた。宮台氏の裁断をさらに援用すれば、この二項対立は「寓話の物語」と「断念の物語」の対立であり、「離脱」と「没入」との対立でもあるが、その成功が幾倍も難しいのは、「寓話」の方であり、「離脱」の方である。私はこの根底に悲痛さを秘めた寓話小説を面白く読んだ。しかしその面白さは、沖縄語の(本土人にとっての)異化効果という加点要素によるものであり、その寓話的部分はむしろ減点要素となった。水を求めて死んでいった戦友への禍根の思いの象徴である、足指から滴り落ちる水が、一方で劇的養生効果とその反動作用のある水として悲劇をもたらしていくという不可解な展開は、物語の悲痛さを消化不良的に解消させるものとしか思えない。つまり、その不可解性が不可解性のまま「世界は確かにこうなっている ! 」という共感をもたらして、世界の謎を我々に垣間見せ、我々を一歩未来の方に押しやる、という「寓話」の効用はあまり感得できないのである。

第117回
1997年前期
個人的評価☆☆☆

カイ  民話(寓話ではない)の形を借りて五十年前の戦争の後遺症を巧みに描く(池澤夏樹)
ヤリ  小説を発想する力に恵まれてゐる人が、しかしそれを構築し展開し持続する修練を経てゐないため、惜しい結果になつた(丸谷才一) 

 寓話小説に対しては概ね審査員の評価は低い。本作もその寓意の部分に厳しい評価がなされている。「寓話仕立ての部分が作品の出来を損なってもいる」(石原慎太郎)、「寓話性がきわめて濃厚になり、つくりが目だつ。小説は寓話ではない」(田久保英夫)、「後半、寓意性が突出していささか空転の気味がある」(黒井千次)。当然、宮本輝などは寓話を「世迷言」と決めつけているくらいだ。しかし、必要なのは、この世界に感情的に埋没しながら同時にそこから離脱できる才能、深く断念しながら、なおも世界の寓意を注視し、世界を再活性化できる才筆の出現である。村上龍がそういう作家だったが、今彼はしきりに「エクソダス」を唱えながら、どこにも脱出できていないよう思える。