硫黄島  菊村至

  多少軽めの、しかし明確な文章で書かれた戦争小説。終戦後、硫黄島でのジャングル潜伏生活の後、日本に帰還、戦時に同胞を殺したことを思い悩んで、その後わざわざ同島を訪れて自殺するという(「ビルマの竪琴」の水島以上に)良心的な兵隊の存在が提示されるが、俄かには信じられない思い。その同胞を殺したということが、死んだ同胞の水筒を取ろうとしたら、彼がまだ生体反応を示したというだけのことなのだ。このような良心の存在が仮に事実だとしても、そのナイーブさに同情こそしても人間の根幹の善の問題がそこにあるとはとても思えない。この著者に従軍経験があるということが信じられないことのようにも思えてくる(従軍といっても内地に見習士官として赴任しただけであるが)。三好徹の文庫本解説で揶揄されている、従軍経験がないために、海軍を賛美ばかりしている某作家(おそらく阿川弘之)と大して変わりもない、「戦争経験」の深度だとしか言いようがない。選者に大岡昇平がいたら彼の苦笑を招いたことだろう。彼を後年ミステリ作家に安住させたのは、この経験の深度の低さの故か、あるいは他人に対する予見の排除を最大限に働かせれば、その逆にあまりの深度ゆえの深い絶望のせいと考えるべきか。同期の直木賞受賞作、「ルソンの谷間」(江崎誠至)とあべこべではないか、と言われたらしいが、これを純文学ではない、と断ずるのは手易くとも、ではこれが「大衆小説」なのかどうかは、断ずるのが難しい。ともかく硫黄島の文学的真実を描いた作品は他に待つべきである。クリント・イーストウッドの「硫黄島からの手紙」ですら、残念ながらこの小説よりは、戦争と人間の真実に近接した表現に達している。

第37回
1957年前期
個人的評価★★★

カイ  正に自然主義描写の残滓を洗い落して新生面を拓いた、簡潔に重量感のある好短篇(佐藤春夫)
ヤリ  現在の小説作法による小説である。したがって、作者が「小説作り」であるという感もないではない(川端康成)