abさんご  その2

 文藝春秋が出たので、さっそく選評を読んでみた。本作をはっきり否定している山田詠美のほかは概ね高評価で、ひらがなで表記された日本語の美に注目している評家が多いことが目立つ。
 不服なのはこの小説に「打ちのめされ」(©米原万理)ている委員が一人もいないことだった。この小説は蓮實重彦の絶賛とともに世に現われたが、絶賛したというのは、批評家としてわずかに居住まいを正してのことであって、絶賛するためにはその前になりふり構わぬ態で打ちのめされる必要がある。然るに芥川賞選考委員は、この小説に新規な工夫や洗練を見るのみで、この小説の言葉が魂に食い込んだという経験は持ち得なかったようだ。つまりこの小説は、いずれの評家にとっても、手のうちのものに過ぎないとして、誰もたじろがずうろたえず、受賞する側の幾分の尊大さとともに、顕彰されたにとどまる。委員がすべて実作家であれば勢いそうなるのだろう。最大限譲って、創作の場で言葉を扱っている人と、単なる一読者とでは、言葉そのものの充溢の質が異なっているということか。作家は誰しも、自分の作品にこそ打ちのめされて欲しいものだろうから。蓮實重彦は実作もするが本籍は批評家である。選考委員に文藝評論家も入れよ、という提案は、芥川賞ではどうなったのだろう。うまい具合に蓮實と利害をことにする(端的には、蓮実に批判された)作家は選考委員にはいないようだし、奥泉委員(堀江委員だったろうか)の挨拶を見ると、蓮實が起端となった「ひとりが多数」という現象が、やはりどうやら起きたようでもある。

 委員の評言の中で、何点か気になった点。

 高樹委員。「大和言葉と一体になることのできる体内リズム、ひらがなを自分の感性と呼吸に沿って自由に意味づける変換力、いや想像力」として大和言葉に着目する。しかし後に述べるが、この小説の文体の特徴は大和言葉につきるものではない。合わせて、小禽、帰着点、幼弱期、さらには家事専従者、家出計画者、有肢爬虫類、情報媒介者などの突兀とした漢語、造成語の多用もまたその特徴である。これは無視できない。

 小川委員。「たとえ語られる意味は平凡でも、言葉のつらなりや音の響きだけで小説は成り立ってしまう」。何を読んでいるのだろう。この小説のどこに平凡な意味があるのか。例えば次のような表現を見て欲しい。どこが、言葉のつらなりと音の響きだけ、なのか。
 ―通過者が通過者でありえたかもしれなかった日がくれて , もどりみちをふさがれた者たちに , そのときやたらな夕焼けがなだれかかってきた―
 ―小いえはたちまち仮寓のすがすがしさをうしない , こうでしかないという卑しさがひしひしと固定していった―<解釈>

 小川洋子の小説のどこを読んでも、このような凡俗な意味にとどまらぬ超絶的表現は出てこない。

 宮本委員。「これでもかというほどの自己陶酔を感じさせる表現」。通常、自己陶酔というものは非難の意味で使われる。しかし、回想という魂の作業の中で、過去の事実の襞に隠された意味を発見することを、単なる自己陶酔とするのはあたらない。仮にそれを陶酔と呼べるとしても、これほどに苦い陶酔があるだろうか。
 「この小説における登場人物は、すべて影であって、影をつくりだす本体は、彼等の住む家と、30年余に及ぶ時間」。そうだろうか。語り手と「家事がかり人」との確執は生々しく、影とは実体から生ずる副次的なものとして言っているのだろうから、すこしあたらないように思う。

 川上委員。「明晰でこなれた文章」。さすがは川上弘美、誰しも、読みづらい、難解だといってしまうところ、私はそれを読み切ったと鮮やかに宣言している。しかし「家庭にはいりこんでくるいやらしい女に対して、あまりに元々の家の住み手が無批判すぎません ?」なとどいうあたり、この見切りが怪しげなものであることがバレてしまう。「家事がかり」が代表する、戦後の卑俗さというものの侵略を、抵抗もしないままズルズルと受け入れてしまう、ある高踏的文化を持った家の敗北こそが、作者が語りたいことなのではないか。しかし川上委員で注目したいのは、そのように読んだ自分にその卑俗さが忍び込んでくることを意識した事だ。「いやらしい女」―語り手の家に侵入してきた使用人―は、語り手も自覚している学究一家の世間的異常さに較べたら、実は単なる健全な生活人なのではないか。戦前の主人筋―使用人、という身分違いから、その使用人と食事を一緒にする事に抵抗を感じ、その抵抗を抜けされない、語り手一家の方が「いやらしい」のではないか。ほかならぬ語り手自身がそれを自覚している。

 ―そのくらしかたがただの停滞などではなく , 二十ねんまえならその者(注―家事がかり)なりにあった基準や平衡が破砕されての異様なゆがみとおもいしらされた者は , だがまたそれはじぶんたち親子のような対処にであったふつうの者のふつうの反応なのかもしれないと , だからその異様はとりもなおさず親子の異様なのだと思い知らされていた―<こま>

 この小説の読み手が、学究的父とその娘との浮世ばなれした暮らしに批判的な目を向けるとき、その反照として、そういう自身の健全さが殆んど卑俗に近いものであることに気づかされる。このことを、私は山田委員の否定的評を読んだときに感じたが、またそれは他ならぬ私自身の読書経験でもあった。人は誰しもこの「家事がかり」を父娘の高踏的生活をかき乱す、図々しい、ふてぶてしいだけの存在と見なす。そして、没落し引き裂かれる父娘の方に感情移入する。しかし実は語り手は単にその「家事がかり」を難じ続けているのではない。語り手の視点は徐々にそこから離脱して行く。
 戦前―戦中―戦後を生きた語り手にとって「家事がかり」は当初「女中」として現われたはずだ。そしてこの、身分をわきまえ、控えめで家事もよくこなす「女中」は、語り手が10才になる戦後2年まで、語り手の家に存在した。それから、もうひとり13歳の頃新しく迎えた「家事がかり」とは、友達のようにつき合う。そして15歳の時の「家事がかり」が問題の人である。このとき1952年、それから語り手が大学卒業と同時に父の家を出る1959年までのあいだ、語り手とこの「家事がかり」との確執が続くのである。丁度この頃、1950年代後半は、「女中」が「家政婦」ないし「お手伝い」に、その呼称と勤務形態を変えていく時期だった。語り手の家に来た父とは26歳も違う若い女性が、そのあと徐々に父の後妻のようになって行くのは、その女性にとっては特に奇異なことではなかった。父の方が「押し入ってくるものをあえてこばむめんどうもいっさいよけていたいたち」の人間であるならなおさらである。
 時代の変化と言えばそれまでだが、仮にも一度文化というものを身につけた人に取っては、時代の変化というものは、「文明の発展」というより、何か「俗的なものの侵入」という意味合いの方が強くなる。語り手が受け止めたものはそれであり、しかもその俗なるものの侵入は、父を奪い取られるという経験を伴うものだったのである。
 もしかしたら、この文体はその「家事がかり」をただ「家事がかり」としてしか呼びたくないがために作られた文体なのかも知れない。もとより、固有名詞でも、人称名詞でも、さらに「お手伝いさん」とも呼びたくはなかったのだ。そしてこの文体なら彼女を「早晩とおりすぎるはずの者」「とてもふてぎわにとてもつらそうに家事がかりをする家事がかり」「ふしぎな同居人」「金銭配分人」と、いくらでも距離をおいた呼び方ができるのだ。

 そのほか、村上龍の評にある、「『完成』ではなく、エネルギーの奔出で、エスタブリッシュメントたちを不快にさせながら、視点と力量を認めさせるのが、優れた新人文学であるべき」というのも面白い。このエスタブリッシュメントには当然村上自身も算入されていなければならない。彼はすっかり大御所になり、大御所になれば、「完成」されすぎているから芥川賞にふさわしくないと否定しながら、当選は喜ぶという様な複雑なことも言わなければならないのかと、感慨を新たにしたことだった。

 石原慎太郎の選評が読めなくなったのは寂しい限り。戯れに彼の選評を捏造してみよう。
  
 「所詮、ただ技巧的人工的な作品でしかない。こんな作品を読んで一体誰が、己の人生に反映して、いかなる感動を覚えるものだろうか。アクチュアルなものはどこにも無い。<さんご>のメタファの意味が伝わってこないし、今日の日本文学の衰弱がうかがえるとしかいいようがない。」
 ―作者は75歳の女性です。
 「なに。文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものはバ*ァだ、と俺が言ったことを無視して、候補にしたのか。俺はもう委員をやめる」
 ―いささか、絲山秋子的ワルノリ。
  というより、彼などにはこの小説は理解不能で、ノーコメント、というのが実際はありえたことだったろう。

 蓮實重彦との受賞後の対談の中で、蓮實が「―である」という語尾に触れて、面白いことを指摘している。曰く「我輩は猫である」とは、「である」を今後使うなという、漱石の禁止である、ということ。曰く、た、だった(の単調性)から、いかに逃げるかというのが、太宰の文体だったということ。興味深いこれらのことを「abさんご」には、「である」が4箇所でしか使われていないことに触れて話している。
 しかし、「である」は実は7箇所で使われていた。これはもちろん「であった」や「であり、」を除いての数値。
 「である」とは微妙にニュアンスが違うが、「のである」については、中井久夫が「私の日本語雑記」の中で面白いことを書いている。

 ―そこで私は読み返すときに「のである」退治をやった。そして「のである」「なのである」は「ここで立ち止まってそれまでの数行を振り返ってください」という印と決めて、このルールを自分に課した。―
 ―対話性を秘めている日本語の文章には第三の聴き手がいて、本当の対話相手は目に見えない、いわば「世間」のようなものではないかと思えてくる。「ではなかろうか」「というわけである」「なのである」などと言うのは世間と言うアンパイアの賛成を得ようとしてのことではないだろうか―

 小説の「である」と、論文の「のである」とは、別次元の話かも知れないが、「abさんご」という、語り手がどこにいるとも知れぬ小説で、「である」という言葉が発せられるときに、語り手がかすかにその姿を見せ、わずかばかり読者の方に顔を向けてくれる気がするのは確かだ。
 「である」は、<予習><虹のゆくえ>の各章に1回づつ、<ねむらせうた>の章に4回、そして最終章<こま>に1回である。最後から2番目の章<ねむらせうた>に、読みながら立ち止まらざるを得ない箇所が多々あると、私は感じたことであった。
 
 平仮名の多用、ということについては、これは日本語の美を示すためと言うより、むしろ言葉にまとわりつく情緒というものを徹底的に排除するためのもののように思われる。たとえば「がっこう」「みゃくらく」「ぎょうぎ」などの音読みする漢語を平仮名に開いても、特に日本語の音韻の美が強調されるわけでもない。これと、特に―者、というかたちで多用される、漢語、「受像者」「改変者」「忘恩者」などの表記は、いずれも言葉にまとわりつく情緒をそぎ落とすためである。前者は、使い古され、手垢のついた言葉を一度「裸」にすることによって、後者は自由自在に漢語を造型し、言葉をよそよそしい突兀としたものにすることによって。特に、「―者」という言葉は、愛憎に絡まれた人間たちをひとしなみにただ無機質なものとして表現できる。そもそも縦書きを避けることの主意は、情緒に纏わりつかれるのを避けるためだと、作家自身が言うところである。単なる「やまとことば」への執着などでは断じてない。もしそうであれば、これほど厳選された言葉からなる小説に「てがみする(手紙する)」などという現代風な言い方が紛れ込むはずもない。
 しかし、もう一つ多用される、「あふれよせる」「ただよいからんでも」「さまよいのこる」等の、動詞を重ねて使う言葉(中井久夫によると、このようなことができる言語は日本語と韓国語の二つだけらしい)には、日本語の音韻の美しさが現われていると思う。「からみひろがる」「さざめきあやす」「ゆれたゆたわせた」と続けられるとき、まるで言葉の色彩と音韻がリボンのように反転しつつ舞うかのようである。
 一方で、山田委員をして「トッポい」と感じさせたものは、委員が例記している「やわらかい檻」「天から降ってくるものをしのぐどうぐ」、というおよそ「物」というものを新たに見直すという試みから出てきた表現より、「見さだめのたりなさはあやされてねむかった」、「いくえにかねじれたこだわりはこだわられた」という、散見される横光利一的な表現の方なのではないか、と推測する。しかし、そのような、言葉への窮屈な身の挟み方というひとつの苦行を通してこそ、
 「さきにじじょうに通じている者たちの気がるな提示に , 意図はくみきれなくても , ただどういう反応がまたれているのかだけはわかって反応してみせるときの , とまどいと投げやりの視野をうめて , さざめきさる妖精たちのつばさはいつも華麗だった」
 というような、表現の超絶に達することができたのだろうと思う。

 推し量れる作者の75年の生涯は決して幸福なものとは言えなかっただろう。長く貧窮のうちに暮らしたらしいことも推し量れる。そのような彼女の生涯に、この受賞があったことを、この上ない浄福のように私は感ずる。75歳、あたかも愛する父の享年の年に自らも達したときに受賞したのだ。この受賞をもたらした蓮實重彦も数え年75歳、この年齢上の偶然に、我が娘に遅ればせの褒章をもたらすために、篤実な学究の徒たる亡き父が、同じく篤実な学究の徒たる蓮實の身に甦ったかのようだ、などと夢想することは許されないにせよ。

 横書き、平仮名、漢語、すべては情緒に身をからみとられることを避けるためである。
 どのようなじょうちょか。
 それは、そのようでしかありえなかった、父との生活に対する甘い悔いのようなものではないか。
 しかし、この情緒の排除、情緒の節約という、禁欲的な営為の果てに、美しい結尾がもたらされる。このとき、地下に沁みこぼれていた情緒が、泉のごとく湧き上がる。

 道が岐れるところにくると , 小児が目をつぶってこまのようにまわる . ぐうぜん止まったほうへ行こうというつもりなのだが , どちらへだかあいまいな向きのことも多く, ふたりでわらいもつれながらやりなおされる . 目をとじた者にさまざまな匂いがあふれよせた . aの道からもbの道からもあふれよせた .

 私はこの小説に打ちのめされた。