abさんご  黒田夏子

 「早稲田文学」新人賞掲載号の広告で、受賞作家―白髪の老女―の顔貌に触れたとき、時期的に言ってもこの人が芥川賞を取る、という予感がした。そうすると森敦が持っている最年長受賞の記録が大幅に書き換えられることになる。もともと2012年は団塊の世代が63歳〜65歳になる年であり、このボリュームのある世代が一斉に年金という一種のベーシック・インカムを得て、新自由主義的制約から幾分自由になる時期であるから、そこから新しい書き手が出、勢い記録も更新されるであろうことは予測していた。しかしまずは団塊の世代は頭を飛び越され、十年も年長のこの書き手が先に登場することになった。
 彼女は予想通り芥川賞候補になった。この時点で私は彼女の受賞を確信した。まだその作品は読んでいないが、芥川賞も75歳の老人を候補にしてから落すような無慈悲なことはしないだろうと思った。それに、聞けば早稲田文学選考委員の蓮實重彦が絶賛していると言う。かなり有望である。蓮實重彦芥川賞の選考委員ではないが、またあの「ひとりが多数」という現象(村上龍の項参照)が起こるかも知れない。
早稲田文学」の掲載号には<松田青子>という作家も作品を寄せている。私の中で彼女の名前と<黒田夏子>の名前とが交錯してしまい、彼女のイメージは黒とも青とも、松とも夏ともつかぬフシギなものになってしまっていた。そのようなことも、abという不確定な分岐の輻輳がもたらしたものかも知れない。
 どさくさにまぎれて舞城王太郎との二人受賞もありうるか、という何の根拠もない予想も持ちえたが、これは見事に外れた。これはしかし考えたら当然である。舞城の前衛ぶりなど、黒田の隣においたらその安易性がすぐばれてしまうのだ。黒田の作品には実軸と虚軸がある。それによって豊かな複素空間というものを現出している。それに較べると、舞城をはじめ世に言う前衛というものは、実軸を欠く虚軸だけの制作物になっているのが大半である。一方、二十代の勤め人によって書かれた直木賞受賞作は、未読であるけれど、思うに実軸だけの制作物なのではないのか。風俗を忠実になぞり、奇態な現代という時代の一端を覗かせるが、登場人物の誰もがデカルト座標軸のどこかにちゃんと位置取りが出来てしまうのだ。
 黒田の文学空間は複素空間である。そこではカタカナを排除するという和に向かうベクトルと、横書きという和から離れるベクトルとのベクトル差が基調になっている。この二つのベクトル、ひらがなの多用/カタカナの排除と、横書き/英字句読点とは、見事に読者から言語のパターン認識を奪うことに成功した。読者はどのページも、どの一行も読み飛ばすことができない。じっくり言葉と向き合うことを強いられてしまうのだ。
 この小説を「味わう」にとどまらず、それを「理解」しようと思えば、どうしても作中の言葉を一旦「普通」の言葉に置き換えてみなければならない。すると見えてくる話の骨格は以下のようなものである。

 早くに母親に死なれ、おそらく大学教授である父親と二人暮らしを送るが、そこに女性の使用人が入り込み、父娘の間を裂く。やがてその使用人は、父親の後妻のような立場になり、家を支配するようになる。―そのような生を送った女性―作家―のさまざまな記憶が綴られていく。
 
 読みにくい、分りにくい小説である。その困難は、端的には前記の表記の形態にある。しかしその表記を仮に通常の、標準的な表記に、―縦書きに直す必要はないが―直してみてもまだ困難は残る。その困難とは、自分の個的なエディプス経験を、出来合いの言葉で置き換えてしまうことの拒否に由来している。自分が追い込まれて行った心理の迷路と、そこから見える原初の光景とに、何かクリシエを与えることで、共生感を得てしまうことへの抵抗である。これこそがこの小説を文学にしている部分である。

 彼女の文体に、明確な、整合的な方法論があるのかどうか、一読した限りでは不明。カタカナ/外来語を排するといっても、それが「外来語禁止ゲーム」、つまりパソコンを電脳機械と称するようなことと大差ない場合もある。しかし、言語に何らかの制約を架すことによって、むしろ想像力が解放されていくこと、言語を拘束することで、心理に架せられた拘束の方が解除されていくという機微が存在することは確かなことのように思う。筒井康隆の「残像に口紅を」は、その言語から次第に使用可能な音がなくなっていき、ついにはゼロになるという(実験)小説だったが、この中で筒井は他の作品には見られないある真摯な告白をしている。明らかにそれがテーマではなかった、両親との間に愛憎の葛藤があったことが図らずもこの小説の中で明かされているのだ。言語の制約という環境の中でこそ、筒井のトラウマ体験が思いもかけない形で解放されたのだろう、と私は思った。自由に、無制約に語らせられることは、自らの破滅にまでつながってしまうかもしれないが、言語の制約は、その破滅の一歩手前で作家を救ってくれるのだ。

 これは「私」というものを取り去った「私小説」である。「私」というものを滅却したとき、これまであまりにも安易に語られ続けていた「私」は廃却され、それよりももっと強固な個体が立ち上がるかの様である。
 ところで「abさんご」って何のことだろう。読む前は「ab珊瑚」のことかと感じていたが、今は良く分らない。珊瑚でないのは確からしいが、それでは「参伍(いりまじること)」あたりのところか。「三五(まばらなこと)」か。

第148回
2012年後期
個人的評価☆☆

付記。黒田氏本人の受賞挨拶で、さんごとは珊瑚のことだと、ちゃんと言っているとのことです。そういえば珊瑚のcoralでabcとつながっていると、どこかで読んだ記憶が。それってどういうつながりだろう。急に自信がなくなってきましたが、小説本文には珊瑚のさの字もでてこなかったはず。文藝春秋発売後に再考する予定でおります。