石の来歴  奥泉光

  小説の中で表現された事象に息づく人間の匂いが希薄なとき、即ちそこに「生きられた経験」がないとき、たとえそれが一定の強度を帯びた表現であっても、そこに小説を書く資質というもの、さらには才能というものを認めるのは難しい。フィリピン戦線での極限体験の描出は、明らかに書物等からの知識によるもので、著者自身によって「生きられた」体験ではない。さらには、鉱石採集という趣味行為に関する描出も、あるいは著者自身の趣味なのかもしれないが、どうも同じく書物から得られたもののような気がする。学生運動でかつての同志を殺害した「浅間山荘」コンプレックス( ? )」も、著者自身の痛切な体験ではなく、ただその歴史的な痛切さをなぞっただけのように読めてしまう。つまり、著者自身の「生きられた経験」を、この小説の中に決定的に見出すことはできないのだ。黒井千次氏の評言はその辺の事情を指しているもののように思う。人はそのような小説には「力量」しか認めることができないのだ。「生きられた経験」が欲しければ私小説を読めば良さそうなものだが、一方こちらにあるのはただの実生活の所感に過ぎない。それよりかは、私はまだ力量の方を良しとしたいのであるが、評家の言を読むと、観念だけでこれだけの物語を作った力量をしぶしぶ認めるといった態だ。自分にはその力量はないから、実生活の所感を細々と書いているのに。大江、古井の両者が本作をあまり評価していないのは、逆に彼等の作品が観念の玩弄物ではないことを示しているのか、それとも彼らの創作とこの小説の方法が類似し、その楽屋裏のみすぼらしさを曝したことへの嫌悪なのか。

第110回
1993年後期
個人的評価☆

カイ  才能とか資質という言葉よりも、力量(黒井千次)
 
ヤリ  言葉の過剰な使い方、何人も殺し殺される話のつくりすぎ、反面で中心の殺人事件の曖昧さなど、私にはうけ入れかねた(田久保英夫)