少年の橋  後藤紀一

 少年に身を託して語る「少年語り」の小説。これは難しいだろう。少年のふりをした大人になってしまう危険性が多分にあるからだ。大人が良く使う便利な言い回しは許されない。そして子供らしい斬新な言語感覚をどこかで出さなければならない。「少年語り」の小説にはサローヤンの「わが名はアラム」という、奇跡的な傑作がある。そこでは、「生」というものの近接にある少年の生態が、官能的に、透明に、無垢に、そして無作為に表現されている。こちらの小説にも官能らしきものはないではないが、それは姉や他の女の体に触れたときの「甘い匂い」という極めて跼蹐したものだった。朝の空気にも夜の雨にも、咽ぶようなサン・ジョン=ペルス的官能を感じられる、少年の特権というものがここにはない。やはり、ここで語っているのは少年などではなく、ただの粗雑でおしゃべりな、移り気な男が少年を偽装しているだけだったのだ。後藤はその後小説家とし大成したわけではなく、俳句などやった後、画業に専念したらしい。当然か。

第49回
1963年前期
個人的感想★★

カイ  読みはじめ、辻褄の合わぬような文章で困ったが、読み進むにつれておもしろくなった(川端康成)
ヤリ  この作者はなにがおもしろくて小説なんぞを書くのか(石川淳)